舛次崇「ペンチとドライバーとノコギリとパンチ」2006年、滋賀県立美術館蔵 撮影:大西暢夫 写真提供:ボーダレス・アートミュージアムNO-MA

 滋賀県立美術館では、6月23日まで企画展「つくる冒険 日本のアール・ブリュット45人 -たとえば、『も』を何百回と書く。」を開催している。「アール・ブリュット」とは、1940年代にフランスのアーティスト、ジャン・デュビュッフェによって提唱された美術の概念で、「生(なま)の芸術」と訳される。デュビュッフェは既存の文化の影響を受けない独特の制作を行う精神障害者や独学のつくり手の作品に心を惹(ひ)かれ、アール・ブリュットと名付けて調査・収集を行った。

 2010~11年、パリのアル・サン・ピエール美術館で、日本のアール・ブリュット作品を紹介する「アール・ブリュット・ジャポネ(ABJ)」展が開催された。同展では、障害のある人、特に知的障害のある人の作品が多く選ばれ、注目を集めた。この展覧会の出展者のうち、45人のつくり手による作品が昨年8月に公益財団法人日本財団から滋賀県立美術館に寄贈(一部寄託)され、今回の企画展でお披露目している。

 出品作品の一つ、舛次崇(しゅうじたかし)の「ペンチとドライバーとノコギリとパンチ」は、舛次が目の前にある物をシンプルな形に変えて描いたものだ。大胆な構図やミニマルな色の選択が劇的な印象を与えている。

 舛次の作品について語るとき、欠かせない人物がいる。兵庫県の絵本作家、はたよしこだ。87年、はたは特別支援学校の児童による作品展に感銘を受け、障害者福祉施設で絵画教室を開きたいと考えた。彼女は兵庫県中の施設に「造形活動の講師をさせてほしい」とお願いしたが、どの施設も前例がないと取り合ってくれなかった。唯一、彼女の申し出を引き受けたのが、社会福祉法人一羊会が運営する西宮市の「すずかけ作業所」だった。91年、はたは同作業所で「すずかけ絵画クラブ」を開設し、当時18歳だった舛次と出会った。はたは舛次のセンスに惚(ほ)れ込み、長年にわたりともに制作に取り組んだ。舛次の作品は国内外で高く評価され、21年に亡くなるまで500点以上を制作した。

 はたは絵画クラブの立ち上げにとどまらず、障害とアートをめぐって様々(さまざま)な活動を展開した。全国の福祉施設を訪問してユニークな作品を作る人たちを取材し、日本知的障害者福祉協会の月刊誌「さぽーと」に記事を連載した。彼女のリサーチは、ABJ展の作家選定に大きく貢献した。

 日本のアール・ブリュットは、デュビュッフェが評価したものとは異なり、知的障害者の作品が多く、福祉業界との結びつきが強いという特徴がある。これは、はたのリサーチが知的障害者の福祉現場を中心に行われたことが一因と考えられるだろう。ABJ展は国内の公立美術館を巡回し、逆輸入的に日本でもアール・ブリュットが注目を集めるようになり、その後、障害者による創作活動も全国的に活発化していった。

 はたが福祉施設に連絡してからおよそ35年、国内の障害とアートを巡る状況は大きく変わった。今日では、全国各地で障害者の作品を扱う美術展やトークイベントが行われている。日本のアール・ブリュットを巡る展開には、「日本では障害者の芸術をめぐる環境が整備された」という肯定的評価と、「アール・ブリュット=障害者アートという誤読を広めた」という否定的評価があるのが現状だ。国内の公立美術館で唯一、アール・ブリュットを収集方針に位置づける滋賀県立美術館の学芸員として、この概念の複雑さに真摯(しんし)に向き合い、研究を続けていきたいと思う。

 純粋に心を揺さぶるのは、はたと舛次が出会ったことだ。この出会いがあったから舛次の絵は生まれ、また公開された。障害のある人の多くは、自力で作品を世に出すのが困難だ。当館で人目に触れるものになるまでに、それを世に送り出すべく動いた誰かが必ずいる。舛次にとってのはたよしこにあたる、その「誰か」は作品や展覧会には通常は現れない。しかし、この展覧会をご覧いただけば、作家解説文や制作風景を映した映像資料の中に、その誰かの気配を、かすかにでも感じ取っていただけるのではないかと考えている。

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 ■人物略歴
 ◇山田創(やまだ・そう)さん
 2017年、ボーダレス・アートミュージアムNO−MA学芸員。22年から現職。専門はアール・ブリュットや障害者による美術。

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