米田知子さん=兵庫県明石市で、高橋咲子撮影

 展覧会が続き、しばらく滞在していた日本から離れ、写真家の米田知子さん(1965年生まれ)は今、拠点のロンドンに戻ってきた。

 金融街のビルを望む自宅のバルコニーには、白いバラが香りを放ち、アジサイも色をつけはじめた。晴れた日はここで食事をすることもあるという。

 1995年のあの日も、ロンドンにいた。1月17日、同じくロンドンに住む神戸出身の友人からかかってきた電話で、阪神大震災が起きたことを知った。すぐにテレビのBBC放送をつけた。「明石(兵庫県)に住む母に電話をしたら、余震が続いているけど大丈夫だと。でも、気になってもう一度かけたら、今度はつながらなくなった。とても心配でした」

 生まれ育った明石やなじみのある神戸が、ニュース映像で、しかも惨事として目に飛び込んでくる。遠く離れたロンドンで。それまでなかった経験に恐怖を感じると同時に、何もできないもどかしさが募った。

 帰国できたのは春だった。神戸港にある人工島ポートアイランドに住む友人が車を出してくれて、東京に住む明石出身の友人と共に周囲を回った。

 そのとき見た光景は、シリーズ「A DECADE AFTER」に収められている。地面に散乱する靴底、ひび割れた壁のなかで半分開いた窓……。手持ちのカメラで撮影した、モノクロの写真は断片のようであり、どれも生々しい。構図をしっかり決め、端正な印象を残す普段の作品のなかでは例外的だ。尋ねると、「作品として撮ってなかったからです」と言う。「記憶にとどめたいと、プライベートで撮りました。当初発表するつもりはなかったんです」

 明石から淡路島に行くフェリーで撮影した1枚「震源地、淡路島」では、お下げ髪の女の子が、窓から島を見ている。生命力に満ちた少女と、躍動する大地。極端な露出で撮ったためか、窓の外の光景は幻想的で、明石と淡路をつなぐフェリーは、此岸(しがん)と彼岸を行き来しているようにも思えてくる。震災直後の、揺れ動く時間のなかでこそ撮影できた写真なのだろう。

米田知子さん「震源地、淡路島」1995年 ゼラチンシルバープリント 国立国際美術館蔵 Copyright the artist, Courtesy of ShugoArts

 芦屋市立美術博物館の個展で2005年、これらの写真を、震災から10年後の光景を撮影した作品と共に発表した。ボランティア活動を続ける人たちを水先案内人に、当時の体験を聞きながら街を歩いた。遺体安置所だった教室、住宅街にぽっかりとある空き地、時間がどのように街を変えたのか、痕跡に目を凝らした。

 「A DECADE AFTER」は、これまでのシリーズのなかでもいっそう時間を強く印象づけるが、とりわけ「川(両サイドに仮設住宅跡地、中央奥に震災復興住宅をのぞむ)」は、時間そのもののように思える。川の向こう側には、震災後に建てられ、コミュニティーを離れたお年寄りが多く入居したという復興住宅が見える。川の両サイドと、中州のような土だまりが並行的にラインを描いて三角形をつくり、見る人の目を引きつける。

 三脚に中判カメラを据えて撮ろうとしたとき、たまたま少年がいたのだという。三角形の頂点、川の土だまりの先端に写る黄色い服を着た男の子は、「その先」を暗示するかのようだ。「桜が終わりかけの季節で、男の子が遊んでるなと思っているうちに、(画面の)真ん中に来た。これからの希望のように見えました」

 阪神大震災から間もなく30年がたつ。以降、大きな災害が立て続けに起き、日本が自然災害と共にあったことを思い出させた。年末からは節目の時期に合わせて、兵庫県立美術館(神戸市)で開催されるグループ展に参加する。

 新作として取り組む一つに、新たな一歩を踏み出した人たちのポートレートがあるという。風景のなかの時間に目を向けてきた米田さんにとって、人物を撮影することは珍しい。「これまで傷痕を撮ってきましたが、30年がたち、傷痕だけを探すように撮るのは違うのではないかと思いました。神戸の人たちは震災の記憶を持ちながらも、前に進んできたわけですよね」。そう言葉を探しながら、話した。

 その街に暮らす人たちが歩んできた時間をまるごと受け止め、道の先にある未来を探す。米田さんにとっても新しい試みが、どのような写真となって表れるのか。展示を見るのが待ち遠しい。

2024年5月26日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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