米田知子さん=海の見える兵庫県明石市で、高橋咲子撮影

「場の持つ歴史」にひかれて 写真家・米田知子さん/上

文:高橋咲子(毎日新聞記者)

写真

 ここ数年、展覧会で何度写真を見ただろう。ロンドンを拠点に活動する写真家、米田知子さん(1965年生まれ)。東京都写真美術館では、開催中のグループ展「記憶:リメンブランス」(6月9日まで)や、その前にあった恵比寿映像祭で。2023年は森美術館(東京)や東京都美術館でも。年末からは、阪神大震災から30年を迎える神戸で、兵庫県立美術館の企画展にも参加するという。

 写真に写っているのは、一見ありふれた光景であることが多い。だが、キャプションを手がかりにしばらく見つめていると、20世紀の歴史が重層的に浮かぶ。「見えるものと見えないもののあいだ」を行き来する米田さんの写真はどこから生まれたのだろう。

 「友人は美術部に入っていて、東京の美大に進んだ子もいる。みんなはクリエーティブだけど、私は本を読むのが好きだったし、自分は違うのかなと思っていたんです」

 だから、アメリカの大学で写真を学び始めたとき、思った。「え、できるやん!みたいな」。当時を思い出して、大きく笑う。

 生まれたのは兵庫県明石市。釣り人がのんきに糸を垂れる。犬を散歩する人が行き交い、目の前に穏やかな海が広がる。

 そんな街での思い出を尋ねると、音楽を挙げた。兄の影響で、小学生のときには来日したクイーンのコンサートを見に姫路に出かけた。失業率が高まるイギリスでは、音楽と社会が分かちがたく結びついていた。「音楽が社会を変えられるって思っていた。ミニコミ誌も作って時事的なことも書いていました」。オルタナティブロックや実験音楽に夢中になり、バンドを組んでギターとボーカルも担当した。

 80年代半ば、ジャーナリズムを勉強したいとアメリカに渡った。メカ好きの父からもらったキヤノンの一眼レフ「FT」を携えて。

 「それまでほとんど写真を撮ったことはなかったです。時代背景もあるのかな。女性がするような感じではないと思っていた。だから使い方も分からないまま、筆の助けになるかと持っていったんです」

 今でこそ女性の写真家は多いが、長く日本の写真界は男性中心だった。当時、活躍する女性はほんの一握り。愛好家も男性がほとんどだった。スマートフォンで誰もが気軽に写真を撮る現在とは、大きく違った。

 入学したのは中西部にあるウィスコンシン大学ミルウォーキー校。たまたまとった写真のコースに夢中になり、イリノイ大学シカゴ校の写真学科へ。「ニュー・バウハウス」(現イリノイ工科大学)出身の先生の下で学びつつ、デザイン、ドローイング、色彩構成にリトグラフまで履修した。

 米国時代に何よりも驚いたことがある。ある展覧会で、星条旗を床に置いた作品があった。来た人が誤って旗を踏んでしまうと、退役軍人が「展示をやめろ」とボイコット運動を始めた。「そうね、ショッキングでした」。あがめるだけが芸術ではない。社会とビビッドにつながるアートの存在を強烈に感じさせたできごとだった。

 89年に念願のロンドンでロイヤル・カレッジ・オブ・アートに入学。91年に修士課程を修了し、96年から撮り始めたのが、「Topographical Analogy」シリーズ。不況の折、空き家や空きオフィスが点在し、制作スタジオも安く借りられた。そんな状況下で、団地の空室に足を運んだ。ベトナム移民が入っていた部屋もあれば、エイズ患者が住んでいた部屋もある。隣にいたかもしれない誰かが暮らした痕跡に目を凝らした。

米田知子さん「壁紙 I」(シリーズ「Topographical Analogy」より)、ゼラチンシルバープリント、1998年

 「後のシリーズは、歴史的なできごとがあった場所や、著名人の一人の人間としての葛藤を写しているけれど、これは無名な人々の、彼らの持つ歴史、時間の流れを写している。そこに住んでいた人はもういないけれども、私たちが今見ている風景はその人も見ていただろうなと」

 当初はドレスなどを空間に持ち込み、物語を作り込んでいた。「でも、なんでこんなことしてるんだろうと思うようになった。既に場の持つ歴史っていうのがあるんじゃないか。そう考えるようになり、(作り込んだ物語を)そぎ落として、そのまま撮るようになったんです」

 1枚の写真上で、現在と過去が交差する。今のスタイルはこうして生まれた。

2024年5月12日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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