「自画像」1914年、京都市美術館

 20世紀の洋画壇において独自の存在感を放つ須田国太郎(1891~1961年)を三つの視点で読み解く回顧展「生誕130年 没後60年を越えて 須田国太郎の芸術―三つのまなざし 絵画・スペイン・能狂言―」が、西宮市大谷記念美術館(兵庫県)で開かれている。「東西の絵画の綜合(そうごう)」という壮大なテーマに挑んだ須田の油彩画約60点と、デッサンや写真、著作など豊富な資料をあわせて展示し、須田の新たな魅力の提示を試みている。21日まで。

学生時代から晩年まで謡曲修業を続けた須田国太郎は、6000枚以上のデッサンも残した=山田夢留撮影

 京都の商家に生まれ、中学時代に本で見たゴッホの絵に感激した須田は、洋画家を志すと同時に、「東西の絵はなぜ異なるのか」という疑問を追究すべく、京都大哲学科へ進学した。大学院での研究と並行して関西美術院でデッサンを学んだ後、1919年、スペインへ渡る。洋画家の渡欧先といえばフランスだった時代。西洋画の根幹を知るために必要なのは、ベネチア派からバロック絵画の技法探究であると見据えた須田は、豊富なコレクションを誇るプラド美術館へ模写のため通った。

「遺跡(サグント劇場跡)」1922~23年ごろ、三之瀬御本陣芸術文化館。スペイン・サグントにあるローマ劇場跡を描いた作品

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 4章構成の本展では、まず第1章で、須田の画業を通覧する油彩画約30点を展示する。意志の強そうな表情が描かれた学生時代の自画像に始まり、渡欧中の模写作品、帰国後、41歳にして初個展を開いた時の出品作や、その後、独立美術協会会員となって発表した大作の数々――。初期から晩年まで変わらないのは、骨太で重厚な中に強い生命力を感じさせる画風だ。

「法観寺塔婆」1932年、東京国立近代美術館。初個展に出品した作品。須田は欧州から帰国後、慣れ親しんだ京都や奈良の古建築を題材にした作品を手がけた

 「須田の作品だけを見ていると、当時の日本でいろんな絵画が流行していたとは感じられません」と話すのは、枝松亜子・学芸課長。西欧からもたらされる美術の新傾向に影響され、めまぐるしく潮流が変わった日本の油彩画を「切花(きりばな)的芸術」と批判した須田は、日本の精神文化に根ざした油彩画のあり方を一人、追究した。枝松さんは「絵に対してものすごく純粋な人だったと感じます」と話す。

 第2章からは「旅」「幽玄」「真理」という三つのテーマで、須田の「まなざし」をひもとく。須田は渡欧中、マドリードを拠点に驚異的な頻度で欧州各地を旅し、風景や事物を描いた。帰国後も画家、研究者そして教育者として忙しい日々を送る中、各地を旅行。「旅」の章では須田が制作のために撮影した写真と、関連する作品を展示し、須田の視点を追う。「幽玄」の章では深く関わった能・狂言へのまなざしを、豊富なデッサンを通じて紹介する。

「鵜」1952年、京都国立近代美術館

 最後の章には、「犬」(50年、東京国立近代美術館)と「鵜(う)」(52年、京都国立近代美術館)が並ぶ。光を受けた家並みを背景に独特の重厚な黒で表現された犬や、羽ばたく一群の鵜。二つの作品は、自らの絵が「色彩を失い暗くなっていく」ことの解決策を模索していた須田がたどり着いた一つの答えであり、「黒の絵画」と評される須田芸術の代表作となった。

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 会場では須田の長男、須田寛さんのインタビューが放映されている。須田は生涯、アトリエを持たず、住まいである貸家の4畳半の部屋で絵を描いた。描くときは必ずジャケットとネクタイを着用し、正座する。およそ画家らしからぬスタイルに、撮影にきた土門拳が「ああいう絵描きは初めて見た」と驚いていたという。その部屋で文字通り「父の背中」を見て育った寛さんは、須田が描く姿を「絵画と戦争していた」と振り返る。

 本展は須田の遺志に基づき設立された「きょうと視覚文化振興財団」との共催で、昨秋、碧南市藤井達吉現代美術館(愛知県)で始まった。この後、三之瀬御本陣芸術文化館・蘭島閣美術館(広島県、5月1日~6月24日)、世田谷美術館(東京都、7月13日~9月8日)に巡回する。

2024年4月8日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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