「大琉球写真絵巻」の展示風景=高橋咲子撮影

 「石川真生―私に何ができるか-」という展覧会名を聞いたとき、タイトルに驚いた。美術館での写真展なら、作家の表現についてかっこいい言葉で付けるのが定番だからだ。あまりにもシンプルな、「私に何ができるか」という問いかけだ。

 「遠い沖縄島(おきなわじま)からやって来た、うちなーんちゅ、沖縄人の石川です」。写真家・石川真生さん(70)=写真・高橋咲子撮影=は、内覧会に集まった招待客を前に話しはじめた。

 高校3年生の秋。1971年11月、沖縄返還協定に反対する大規模なストライキが起きた。父親と同じくらいの世代の機動隊員が、火炎瓶を投げられて目の前で火だるまになった。沖縄人同士で傷つけ合う光景に、突然「写真家になろう」と思い立ったという。沖縄人は日本人なのだろうか、沖縄は日本なのだろうか。祖国ってなんだろう。

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 東京・初台の東京オペラシティ・アートギャラリーで開催中の本展は、東京で開かれる初めての大規模個展となった。キュレーションは、2004年に沖縄県外の美術館で初めて石川さんを紹介した天野太郎チーフ・キュレーターが担当。沖縄県立博物館・美術館で21年にあった回顧展は記憶に新しいが、天野さんによると、この個展を踏まえたうえで編んだという。

 50年の足跡をたどるように展示する本展の、冒頭を飾るのは、初期作の「赤花」。70年代後半に米兵相手のバーで働きながら、同僚の女性たちを撮ったシリーズだ。日に焼けたプリントには、夜のけだるさ、はしゃぐ女性たち、ビーチでの笑顔が写っている。共に時間を過ごしながら、そのなかで撮影したこのシリーズについて、図録では「見ることと見られる関係をより重層化する」という、映像批評家の仲里効さんの言葉を紹介している。

「赤花アカバナー沖縄の女」より 1975~77

 「港町エレジー」(83~86年)では、港近くで営んでいた居酒屋に来る、遠洋漁業の労働者たちが主役。飲んで眠り込んだり、ふざけたりする男たちの姿がある。沖縄芝居の一行を撮影したシリーズ(77~92年)では、役者が素顔を見せる舞台裏から、詰めかけた観客まで。どちらも「くっついて行って撮」った(石川さん)写真だ。

 沖縄を撮影するとき、徹底的に傍観者としての自分を意識して撮ることも手法としてはあるだろう。でも、沖縄に生きる石川さんは、そういうわけにはいかなかった。相手とやり取りするなかから生まれたものが石川さんの写真であり、それを大切にしてきたことが写真からも分かる。

 天野さんが図録で「沖縄に関与するあらゆる人々が登場する」と指摘するように、写真には沖縄の自衛隊員や、辺野古基地建設の反対・賛成両派もいて、世論を二分するような政治的イシューでも変わらない。

「大琉球写真絵巻 パート9」より 沖縄でバイレイシャル(ミックスルーツ)として生きること 2021

 ユニークなのはドキュメンタリーと創作の汽水域にある作品群だ。メインは、14年から取り組む「大琉球写真絵巻」で、17世紀の薩摩の琉球侵攻から始まる庶民の歴史を、庶民が演じる壮大なプロジェクト。現在パート10まで重ねており、本展では1と8~10を展示する。絵巻という通り、超横長の大画面にさまざまな場面が表され、一つ一つに詞(ことば)書きよろしく、長いキャプションがついている。過去の歴史的場面を表すこともあれば、出演者が自らを演じる、つまり個人史の一場面を表すこともある。しかも、登場する人の名前が記されることも珍しくない。

 事象を表すために、被写体を利用するのではない。事象のなかにある人を、その人と反応し合いながら撮ろうとしているのだ。そのうえで創作の色合いが強ければ、「絵巻」や「日の丸を視(み)る目」(93~11年)になるし、ドキュメンタリーの色合いが強ければ「赤花」になる。

「日の丸を視る目」より 2008

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 海外に行くと、いつもブロークンイングリッシュであいさつするという。「I am Okinawan, not Japanese. I came from Okinawa. Don’t forget this」。自負を持って「ヤマトの人が何十回来ても撮れない沖縄を、私は知ってる」と話す。

 がんを発症し、入退院を繰り返す。重いフィルムカメラは持てなくなり、左手につえをつきながら右手でデジタルカメラを構える。「シニ(とても)かっこ悪いけど、かっこ悪くても生きていける。私に何ができるか、答えは一つしかない。はい、死ぬまで沖縄を撮り続けます」。12月24日まで。

2023年11月20日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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