明治期、新天地での仕事を求め、国内から大勢の人びとが太平洋を渡った。中でも移住者の多かった和歌山県からは、戦前までに3万人超が移り住んだとされる。和歌山市の県立近代美術館で開催中の「トランスボーダー」展は、県の移民の歴史と重ね、主に西海岸で活動した日系美術家たちを紹介。日米開戦後に強制収容所で制作された作品を含む約200点を通して、日本とアメリカの「はざま」に埋もれた歴史を丁寧にすくい上げる。
国内で渡米熱が高まったのは1900年ごろ。紀南地方からは漁師らがロサンゼルス南にあるターミナル島などに移り住んだ。島には30年代、約3000人の日系人が暮らし、太地町出身者が目立ったという。展覧会の序盤では現地の缶詰工場で作られたツナ缶や、故郷へ送られた家族写真などを展示。その写真を撮影したのは、同郷の井谷一郎や、後に収容所を記録したことで知られる香川県出身の宮武東洋ら渡米写真家のスタジオだった。
本展ハイライトの一つが、和歌山県ゆかりの画家として初めて紹介される上山鳥城男(ときお)(1889~1954年)の作品群だ。上山は鳥屋城村(現有田川町)出身。19歳で単身渡米し、ロサンゼルスの大学で美術の学位を得る。成績優秀で欧州留学の機会も与えられ、帰国後の21年、ロサンゼルスで日本人芸術家団体「赫土社(しゃくどしゃ)」を創設。西海岸における日系人らの文化的コミュニティーで中心的役割を担ったことなどが今回の調査で明らかになった。
会場には最初の個展に出品された風景画「モントレーの入江」(24年)や、妻を描いた「黒衣の肖像(上山夫人)」(28年)などが並ぶ。「鳥屋城山」は36年、病気の父を見舞いに帰郷した際、描いたもの。当時展示した地元の小学校で長く守られていた唯一の国内所蔵品でもある。上山作品は写実性と色彩感覚に優れ、おおらかな画風が魅力だ。
赫土社に関する展示も見応えがある。同人には宮武ら写真家も名を連ねた。そのつながりで、まだ無名だった写真家エドワード・ウェストンの個展を25年、赫土社がいち早く開いたことは興味深い。上山と宮武が旧蔵していたウェストンの写真も展示され、活発な交流の足跡を伝える。
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上山らアメリカに根を下ろした日系人の生活が激変したのは41年のこと。12月、日本軍がハワイの真珠湾を爆撃し、「敵性外国人」となった日本人に対し、翌年2月には強制立ち退きが合法化された。本展最終章は、収容所での文化的活動に焦点を当てる。
複数の収容所を転々とした和歌山市出身のヘンリー杉本は、時にベッドシーツを画布代わりにしながら、100点以上の絵を収容所で描いた。淡々とした筆致に過酷さがにじむ杉本作品に対し、上山の「疎開者」(42年)には椅子に腰掛けて編み物をする妻の姿が描かれ、牧歌的な空気が漂う。写真というメディアで収容所の生活を記録した宮武の目は、バトントワリングを練習する少女の笑顔など人びとの日常を捉える。
一連の作品と並び、美術を生業としない人たちが手がけた多様な造形物も会場を飾る。地面に落ちていた貝殻、木片など限られた材料を基に作られたブローチや置物。「いわゆる資料的なものも、美術作品と並列になる形で出しました」と本展担当者の一人、青木加苗学芸員は話す。創作の喜びから生まれたであろうそれらは「美術作品」とそれ以外を分かつ線を軽々と越える。
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戦前、美術の中心はパリをはじめとする欧州だった。もう一人の本展担当者、奥村一郎学芸員によると、当時の渡米美術家の仕事は近代日本の美術史からこぼれ落ちてしまう傾向にあったという。中でも西海岸を拠点にした人たちは国内の所蔵品が少ないことなどから、紹介される機会はほとんどなかった。
一方、多くの移民を送り出した「移民県」にある同館は、前身の県立美術館時代から、ニューヨークを中心に活躍した画家、石垣栄太郎ら渡米美術家たちの調査を継続してきた。今回、ロサンゼルスの全米日系人博物館などとの連携に加え、そうした研究の蓄積の上、西海岸に光を当てた展示が実現したことは意義深い。
郷土史とからめつつ「地域を通していかに世界を見るか」(青木学芸員)という主題に正面から取り組んだ本展。「はざま」を厚みのある歴史として描き直すと同時に、今この国でもアクチュアルな響きを持つ「移民」というキーワードから、現代とのつながりにも目を向けさせてくれる。11月30日まで。
2023年10月23日 毎日新聞・東京夕刊 掲載