1975年、文化祭期間中に来日したアントニオ・ロペス氏(右から2人目)。背景に建つのは円形校舎=文化服装学院提供

【カルチャースコープ】
創立100年 文化服装学院/下
根っからの洋服好きの居場所

文:津森千里(TSUMORI CHISATOデザイナー)

ファッション

 文化服装学院に入って一番、良かったと思っていることは同じ目的を持った友人にたくさん出会えたこと。今でも「デザイン科24期生」というLINE(ライン)グループでつながっています。わたしが5年前、パリで最後のコレクションを発表したときも7、8人が駆けつけてくれました。つらいときに励ましてくれるし、的確なアドバイスをくれることもあります。

 実家の埼玉県狭山市から西武新宿線に乗って3年間通いました。母が「自分で人生を作れる仕事を持った方がよい」と入学を勧めてくれました。デザイン科を卒業したのは1976年。パリで学んだ立体裁断を日本に広めた小池千枝先生に学びました。小池先生は教室で、三宅一生さんや高田賢三さんらがパリで活躍する写真をよく見せてくれました。当時はデザイナーになれるとは思ってもいなかったけれど、やってみたら何とかなりました。

 賢三さんは帰国すると母校の「文化」に寄ってくれるんです。ジタンを吸う賢三さんをクラスメートが囲みました。服作りをめぐるアドバイスを求めるというよりも「パリってどんなところなの?」と、友達感覚で接していましたね。

 課題の多さは今も昔も変わらないと思います。布やボディーを抱えて持ち帰り、家で寝ずにやることも珍しくありませんでした。最初に作ったスカートは黄緑色と白の、ウールの千鳥格子柄だったかな。ガーリーなテイストが好きなのは当時からあまり変わらないですね。

 秋には文化祭が開かれます。それぞれ自作した洋服を同級生をモデルにしてショーをするんですが、ある年、プエルトリコ出身の、米ニューヨークで活躍する有名イラストレーター、アントニオ・ロペスが招かれて見に来たんです。彼が選んだ5ルックのうち三つが、私がモデルを務めたものでした。今でもちょっとした自慢です。

 小池先生の方針で「装苑賞」には毎回、応募していました。ファッションクリエーターの登竜門ですね。その時の雰囲気は「切磋琢磨(せっさたくま)」という言葉がぴったりでみんなで競い合う。同級生は100人超。同じ目的に向かう活気に満ちていました。大賞にあたる装苑賞は取れませんでしたが、それにつぐ佳作は4回、取りました。他にもいろんな賞に応募して「賞金稼ぎ」と言われたりして。そのお金でニューヨークを3カ月、旅したりしました。今では「装苑賞」を審査する立場になりましたが、地方の学生や中国をはじめとしたアジアの学生たちに勢いがある印象ですね。

 服作りを学んでいると、やっぱりおもしろい服を着たくなります。「文化」には古美術を学ぶ研修旅行があるんです。それで奈良へ行ったとき、奇抜な格好で古都をぞろぞろと歩く集団に驚いた人も多かったんじゃないかな。当時はヒッピースタイルがはやっていて、私は刺しゅうしたデニムとかはいていましたね。世界的トップモデル、山口小夜子さんのようなおかっぱヘアで。地元・狭山では目立ったのかもしれませんね。母からは「暗くなってから帰ってきなさい」なんて言われました。

 夏休みにはクラスメートと洋服を作って朝から夕方まで表参道の路上で売りました。シーチング生地で作って染めて。まだ路肩に残っていた石垣にハンガーを引っかけて。儲(もう)けはなかったけど面白かった。

 他の学校のことは分からないけれど、根っからの洋服好き、本心から洋服について学びたい人が集まる場所。それが「文化」だと思います。私はここで初めて、自分の居場所を実感しました。そして、生涯の友も得た。夫も「文化」の同級生。好きなものでつながっているって強い。今でも、これからも大切な場所です。

2023年9月17日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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