村上三郎「河小屋」1952年  芦屋市立美術博物館蔵

 ◇「具体」「紙破り」 思索の人の「限らない」絵画

 前衛美術集団「具体美術協会」(具体)の中心メンバーだった村上三郎(1925~96年)は、その生涯で40回近く制作された通称「紙破り」とともに語られてきた。木枠に張ったハトロン紙を体当たりで突き破る、パフォーマンス性の強い作品だ。だが当初、それは「絵画」として展示されたという。

 兵庫県の芦屋市立美術博物館で開催中の特別展「限らない世界/村上三郎」は、絵画を巡る作家の思考に迫るものだ。村上が書き残したメモなど膨大な資料を約3年かけて調査した同館の大槻晃実(あきみ)学芸員は「徹底的に絵画表現とその行為を突き詰めようとする村上さんの姿が浮かび上がった」と話す。96年の同館での個展、その準備中の不幸だった村上の急逝から25年を経て開幕した本展は、「絵画」を軸に、新発見の資料や国内初公開の作品など計約360点を通して「紙破りの村上」とは異なる新たな作家像を描き出す。

 <私は瞬間を空間として捉えようとしたし同時に、時間は空間に痕跡をとどめた>。紙破りについて村上は96年にこう語っている。具体結成翌年の55年に会員となり、その年の第1回具体美術展で初めて「紙破り」を出品。自室で作品の構想を練っていた作家のもとへ、3歳の長男がふすまを破って飛び込んできたことにヒントを得たという。兵庫・西宮の自宅で作られた記念すべき第1号は、公開制作された別の紙破り作品「6つの穴」とあわせて壁面に展示された。今展はまず導入として、「紙破り」のきっかけとなった当時のふすまや自筆の記録ノート、記録映像などをエントランスホールで紹介している。

 ◇「具体美術協会」で時間と空間を探究

 村上と絵画。1章はその出会いにさかのぼり、これまで展示される機会が少なかった新制作協会時代の作品を中心に構成される。村上は49年、新制作協会会員だった洋画家の伊藤継郎(つぐろう)に師事。同会展で発表した作品は風景画にはじまり、次第に抽象化されていった。後に具体メンバーになる白髪一雄とは伊藤のアトリエで出会い、その後、「ジャン」や「0(ゼロ)会」で行動を共にした。白髪との2人展(54年)では完全な抽象画に移行。ナイフで塗り込められた色彩の画面は、続く2章の、絵画の物質性が強調された具体での活動につながっていく。

 絵画を探究した具体時代の作品を考える上でキーワードになるのが「時間と空間」だ。村上は57年の第3回、第4回具体展で、時間の経過とともに塗料がはがれ落ちる通称「剥落する絵画」を出品。今なお剥落する進行形の作品は、変化そのものが「生きた時間」として絵画空間に流れ続けている。あるいは、新しく描いた絵にキャンバスごと過去作を重ねた通称「重層画」にも時間と空間の厚みが加わる。大きなストロークで色とりどりの塗料を飛び散らせ、偶然の痕跡を描いた大作群も会場に並び、中には第9回具体展に出品されて以降、所在不明だった60年の作品も含まれる。

村上三郎「作品」1957年(通称「剥落する絵画」) 芦屋市立美術博物館蔵

 ◇世界を限らない「私」

 大学で哲学を学んだ村上は、思索的な言葉を多く残してもいる。たとえば50年代のメモには<絵画を生存の問題として考えたい>とある。「具体」の機関誌に掲載した「具体絵画小論」(61年)では絵画について<それは其処(そこ)に在る。説明し得る人生がない様に、説明し得る絵画はない>とつづった。改めて一連の絵画を見渡すと、行為の瞬間を刻んだ「紙破り」もまた、空間にドローイングするような絵画の身ぶりとして捉え直すことができる。56年の野外具体展では、四角い枠で移ろう風景を切り取る「あらゆる風景」や、筒状の構造物に入って上部の穴から空をのぞく「空」など体験そのものを要素とする作品を手がけた。

 そのように鑑賞者の能動的な参加を促す態度は、具体解散前後の70年代に開かれたいくつものパフォーマンス的な個展にも見られる。21の木箱を大阪市内の路上に放置した後、回収して来場者とともに解体した「箱」(71年)。会場で1人座る村上がしゃべらないことを作品とし、訪れた人と筆談し続けた「無言」(73年)。一見、絵画表現から飛躍しているようにも思えるが、「制作の根底はぶれずにつながっている」と大槻さん。なるほど、他者とコミュニケーションを図り、その場その時の1回限りの行為を重視する態度は「時間と空間」、そして「いま、ここにある」という存在そのものの問いに接続される。

 村上について、「従来の絵画技法からの脱却をめざし、自由に思考する心を持って絵画と誠実に向き合っていた」と大槻さんは考える。本展タイトルは村上が残した60年代のメモからの引用だという。「限りない世界」と縦書きした文字の横から矢印を引っ張り、「限らない世界」と直したその言葉には、「自分で限らない」というように「私」という主体的な存在への自覚が感じられる。すなわち世界を自由に表現する「私」がいまここにいるということ。<存在には理由はない。重要なことは理由のないことである>(63年「美術ジャーナル」)。ただそこにある絵画を前に、私たちは今なお無限の想像力をもって自由に語り、思考することができる。

 2月6日まで。月曜休館(1月10日は開館し、翌日休館)。芦屋市立美術博物館(0797・38・5432)。

所在不明だった村上三郎の「作品」(1960年、左から二つ目)など具体時代の大作が並ぶ会場=兵庫県芦屋市の市立美術博物館で、清水有香撮影

2022年1月9日 毎日新聞・ニュースサイト 掲載

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