政治や経済の分野に比べれば、女性が進出しているように思える文化芸術界だが、関連組織の上層部や、プロデューサー、映画監督、演出家など決定権を持つ立場には依然、男性が多い。文化芸術界でジェンダーの不均衡を是正するには何が必要か。そして、表現活動を通じて浮かび上がるジェンダーの課題とは何か、を考えた。
属性の偏りが生む硬直 竹田恵子・東京女子大女性学研究所准教授
美術界のジェンダー不均衡は、政治など他の分野と同様、改善すべき重要な問題である。日本美術界の概観としては、美術大学教員や美術館館長など比較的高い地位に男性が多く、比較的低い地位に女性が多いという構造が顕著である。評価される芸術家も、また批評家も、男性のほうが圧倒的に多い。
私が「ウェブ版美術手帖」からデータの提供を受けて分析したところ、例えば現代美術作品を多くコレクションする国公立の美術館(東京都現代美術館、東京都写真美術館、国立国際美術館、東京国立近代美術館)収蔵作品における女性作家の割合は10〜13%なのに対し、男性作家は70〜80%台後半であった。また、美術大学(全国で受験者数の多い上位5校)のほうが同じくらいの偏差値の一般大学と比べて女性学生の割合が大きいにもかかわらず、女性教員(正規)の割合が小さい。美術大学における女性学生の割合は60〜70%台なのに対し、女性教員は約10〜20%台にとどまる。このように、権力を持っている性別に偏りがあることは、権力勾配を利用したハラスメントの温床になりやすい。
これらの構造は、芸術における主体(見る側・創作する側)と客体(見られる対象)という問題ともつながっている。美術には創作者に男性が多く、その創作のモチーフやモデルとなる側に女性が多かった。現在までの研究で「見ること−見られること」の間に権力関係が埋め込まれてしまうという論が示されている。対象を「見ること」により「所有」した気になったり、性的に消費したりしてしまうのである。
そもそも女性芸術家の少なさには、教育システムが関連していたことも指摘されている。西欧では19世紀末まで女性画家が男性のヌードモデルを描くことが禁止されていたために評価されやすい絵画モチーフを描けなかったことなど、美術教育システムの中に、女性芸術家が誕生しにくい構造があった。日本でも戦後まで、女性は男性と同じ教育を受けることができず、自立した美術家になることを期待されていなかった。女子美術教育は、子供の教育や夫のために屋内を飾る「良妻賢母教育」の一環としてあった。戦後、女子美術教育が「消された」形で見せかけの平等が達成されたものの、内実は達成されたとはいえない。
しかし、日本でも状況が変化する契機がいくつか見受けられる。近年、再びジェンダーをテーマとした展覧会が多く開催されるようになった。また2010年代半ばから女性アーティストによるコレクティブ(集団)がいくつも発足し、自分自身の声をあげるようになってきている。さらに横浜美術館、森美術館などの美術館長に立て続けに女性が就任している。属性の偏りは、硬直した思想や構造の原因となりやすい。思想の多様性を確保し民主主義的な業界をつくりあげるためにも属性の多様性を確保すべきではないか。これは「女性」という属性に限らず、人種、民族、セクシュアリティーなどにもいえることである。(寄稿)
子育て受け皿、撮影現場に 芦澤明子・映画カメラマン
映画の撮影現場に、今や女性の姿は珍しくない。監督だけでなく撮影部や照明部でもそうだ。世間のイメージよりも多いと思う。特にここ数年は、助手から一本立ちして技師になる人も増えた。みんな熱量が高く優秀だ。
ただ結婚して子育てをする女性には、障壁が多い。長編のドラマや映画の撮影は拘束時間が長く、生活が不規則になりがちだ。一度現場を離れた女性が復帰したいと希望し、周囲が待ち望んでいたとしても、子どもを預ける場所などがなく、諦めざるを得なくなる。問題はこうした女性が働き続けられる受け皿がないことで、優秀な人が現場を離れてしまうのはとても残念だ。
私の助手に子育て中の女性が就くこともある。長期ロケがある場合などは、早めに本人に知らせて調整できるようにしている。日本の撮影現場は余裕がなく、言い出しにくい状況もある。理解が進んだとしても、周囲に気を使われる状態では本人の居心地は良くないだろう。
2019年にインドネシア映画の撮影を担当したが、各パートに女性のメインスタッフがいた。撮影現場は人員も日程もゆとりがあったし、「失敗しても気にするな」という雰囲気だった。顔なじみの女性スタッフが見当たらないので理由を尋ねたら、出産のためと言われたこともあった。全体が若く、ハリウッド方式に自国の事情を取り入れたバランスの良い撮影現場で、日本が学ぶところも多いのではないか。
私が最初に映画界に入ったのは、ピンク映画の撮影現場のアルバイトだった。当時女性は1人だけ。大変で嫌なこともあったと思うけれど、覚えているのはいいことばかり。慢性的に人手不足だったから珍しがられるのも最初のうちで、周囲はかまっている暇がなかったのだろう。甘やかされていたのかもしれない。むしろ今の方が実力勝負で大変かなとも思う。
作品に男性だから女性だからという違いがあるのかは分からない。ただ、監督と撮影監督が同性同士だと、あうんの呼吸で分かってしまう部分が多い。異性だと説明を十分にする必要があって、コミュニケーションが多くなる。そうしたことは、撮るものに影響しているかもしれない。
映画界は変化の最中だ。教育機関が増え、映画を学ぶことは特別ではなくなった。デジタル化で機材が軽くなり、操作も楽になったから、カメラを担ぐだけで大変という時代ではない。「感性が豊かでやりたいことがはっきりしている」「持続力があって人間関係を良好に保てる」など性差ではない能力が男女問わず問われるだろう。
労働環境の改善や子育ての受け皿作りなど、課題は他の業界と同じだ。映画界はどのパートも女性が増え、意識改革は進んでいる。ネットフリックスやアマゾンなど海外の配信サービスでは、撮影現場のルールを設け、セクハラやパワハラに厳しく対処している。日本でも子育てしながら働くことの負担が減ってくるだろうし、そう願いたい。【聞き手・勝田友巳(毎日新聞記者)】
生き残るため演じる「女性」 谷賢一 劇作家・演出家
ドラマとは2人の異なる立場の人物が出会うことで生まれる。そして、議論をしたり説得したり、交渉したり殺しちゃったりして物語は転がる。異なる意見と出会うから自分も変われる。つまり成長がある。これがシナリオ術の基礎の基礎だ。
そこで身近だが遠い他者で異性の、しかも妊娠という最も性差が顕著になる瞬間を選んで芝居を書いた。「丘の上、ねむのき産婦人科」という作品だ。役を演じるために私たちはたくさん想像する。「つわりってどんな感じ? 逆子・陣痛・帝王切開ってどんな感じ? おなかに子どもがいるってどんな感じ?」。筆者である私も男性だし、大半の俳優も妊娠経験がないため、ひたすら想像した。演じるとはその人の立場に立ち、その視点から世界を見ることだ。
異性を想像するため男女逆転上演にも挑戦した。女性が男性を演じ、男性が女性を演じる。当初、男性が女性を演じる時には声を高くしたりクネクネ動いたりしていたが、違和感を覚え、皆すぐにやめた。それはただのステレオタイプで、女性が女性を演じる際にはそんな表現はしていなかったからだ。なるべく自然にしていよう。しかし、そこで新たなことに気がついた。
男性が演じる女性は、ただ自然に、普通に座っているだけのつもりでも、妙に高圧的で不機嫌に見える。とにかく怖い。細かく比較、分析してみると、女性が女性を演じる際には実に細かい気遣いや周囲への配慮を演技の中に入れていた。それは自然にそうしているというより、年下だったり経済的に弱かったりする女性が気遣いや配慮を「させられている」「せざるを得ない」のだと気づいた。女性は気遣いや配慮が生得的に上手(うま)いのではなく、収入や環境・人間関係により、そう振る舞うよう強いられてきたのだ。
男女の体格や身体的な差異が生む影響も顕著だった。「体と声がでかいだけで女からすると怖い」という台詞(せりふ)も書いたが、演じてみると一目瞭然だ。男性が演じる女性役はフラットに演じているつもりでも怖く見えたし、女性が男性を演じるとイマイチ、役の怖さが出せなかったりした。自分がどう相手を威圧しているか、自分の視点からだけでは気づけない。役を入れ替えてわかったことだった。
役の男女を入れ替えて相手の視点から世界を見てみると、女性がどういう不安や不自由な世界を生きているかよくわかった。ある専業主婦の役を男性が演じた際、彼が感じたのは「離婚してやる」という怒りだった。女性がその役を演じると、「おなかの子どもとお金のことを考えたら離婚だけはできない」と感じたらしい。性差だけでなく社会的・経済的な差がその人の振る舞い=演技を決定している。俳優が役を演じるのと同じように、女性もこの困難な社会を生き延びるために女性という役を演じている。
役は英語でロールというが、ジェンダーロールという言葉がある。自分の大切な人がどういう役を演じているのか、演じさせられているのか、現実でも一度想像してみたい。(寄稿)
女性映画監督わずか
非営利団体「Japanese Film Project」の調査によると、2000〜20年に公開された日本映画で興行収入10億円以上のヒット作を手掛けた監督は延べ796人いたが、このうち女性監督はわずか3%の延べ25人だった。また、20年に公開された全ての日本映画のスタッフに占める女性の割合は、監督12%、撮影監督11%、編集20%、脚本19%で、特に現場スタッフが少ない。
PROFILE:
◇竹田恵子(たけだ・けいこ)氏
専門はジェンダー研究、社会学。EGSA JAPAN代表。著書に「生きられる『アート』—パフォーマンス・アート≪S/N≫とアイデンティティ」など。
◇芦澤明子(あしざわ・あきこ)氏
1951年東京都生まれ。CMから劇映画に進出し、「岸辺の旅」「海を駆ける」など多くの作品にかかわる。「わが母の記」で2012年度毎日映画コンクール撮影賞。
◇谷賢一(たに・けんいち)氏
1982年福島県生まれ。明治大卒。劇団「DULL−COLORED POP」主宰。福島の現代史と原発事故を描いた「福島三部作」で第64回岸田國士戯曲賞受賞。
2021年10月01日 毎日新聞・東京朝刊 掲載