第56回ベネチア・ビエンナーレ日本館で展示された「掌の鍵」(2015年) サニー・マンさん撮影

 1996年、ドイツに渡った塩田千春さんは、美術大学でアーティストのマリーナ・アブラモビッチさんに師事した。そのワークショップで生まれた作品に「トライ・アンド・ゴー・ホーム」(97年)がある。5日間の断食後、「何でもいいから一言書いて」と紙と鉛筆を渡され、そこに書いた言葉をもとに作品を作るという過酷な授業。「もう帰りたい」と、塩田さんが思わず書いた言葉は「Japan」だった。

 極限状態で思い浮かべた恋しいはずの場所なのに、どこか居心地の悪さを感じる「ホーム」。斜面の洞穴に全裸でよじ登り、転げ落ちてはまた登る、を繰り返す作品は、不安定な自己の存在を描き出すものだった。パフォーマンスの後、体についた土を洗い流していた塩田さんは、「何かを落としきれない気持ち」を感じる。開かれたドイツの社会は「外国人であることを忘れる」ような環境ではあったが、自分の皮膚の色を初めて意識し、日本人としてのアイデンティティーについて考えるようになっていた。

 2001年、第1回横浜トリエンナーレに出品。泥で染まった巨大なドレスに水が降り注ぐ、高さ17㍍のインスタレーション「皮膚からの記憶」は、鑑賞者に鮮烈な印象を残した。「第2の皮膚」を意味し、その後の作品にもたびたび登場するドレス。一方「記憶」も思索の中心にあったものだ。「自分にもし記憶がなければ、私は私って説明ができないんじゃないか」。存在の根源について考えを深めるうち、そこにいない存在が、そこにいないことでより存在感を増す「不在の中の存在」というテーマにたどり着いた。

「皮膚からの記憶」2001年、横浜トリエンナーレ。怡土鉄夫さん撮影 いずれも©JASPAR, Tokyo, 2024 and Chiharu Shiota

 翌年、燃えたピアノや椅子に黒い糸を張り巡らせた「静けさの中で」(02年)を発表。子どもの頃、隣家の火事で見た光景が脳裏に焼き付いていたという。「もう音が出ない焼けたピアノは存在感を増し、視覚的にも美しくなっていたんです」。弾けないピアノ、誰かが寝ていたベッド、使い古した旅行カバン、履き古した靴……。ベルリンにアトリエを構えた塩田さんは、さまざまなものを介しながら、目には見えない「不在の中の存在」を目に見える表現へと変えていく。

 原点は幼少期、両親の故郷、高知での体験だという。お盆に里帰りし、土葬の風習が残る墓地を掃除していた時のこと。「土の下で眠る祖母の呼吸が聞こえてくるような気がして」、思わず草を抜く手が止まった。死、そしてそこにいない人の存在を、直接感じた瞬間だった。

 ベルリンでは古い窓を使った作品も生まれた。当時、旧東ベルリンでは改装工事が至る所で行われており、工事現場には取り外した窓がたくさん並べられていた。「何か作りたい」という衝動に駆られ、工事現場を回って大量の窓を収集。数百枚を組み上げたインスタレーションは、一つ一つの窓の向こうで暮らしていた誰かの存在を強く感じさせた。内でも外でもない窓に託したのは「ドイツと日本、そのどちらでもない狭間(はざま)にいる自分の存在」だったという。

 02年、結婚。3年後、卵巣にがんが見つかった。子どもを望んでいたため全摘出はせず治療し、07年には長女を出産。2人目を妊娠していた13年、6カ月での死産という不幸に見舞われる。3カ月後には父親が死去。悲しみの底に沈み、「これ以上傷つきたくない」と家にこもった。「今の気持ちをどうにか表現しないと生きていけない」と制作した映像作品「地と血」(13年)には、血のりのような赤い絵の具を自らに塗りつける塩田さんの姿が映し出されている。そんな時にもたらされたのが、ベネチア・ビエンナーレ日本館のコンペ参加の話だった。

 「大切なものを失った後だったので、大切な何かを手の中に握りしめたいという気持ちだった」。集めたのは、18万本の古い鍵。日本館の展示空間に張り巡らせた赤い糸に5万本の鍵を編み込み、その下には、人々の大切な記憶を受け止めるかのように古い木造船を置いた。

 大きな喪失を乗り越え作り上げた「掌(てのひら)の鍵」(15年)。その圧倒的空間は現地でも高い評価を受け、世界各地からの展覧会オファーが相次いだ。

2024年11月18日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

シェアする