「つながる輪」の前に立つ塩田千春さん=村田貴司撮影

 無数の赤い糸につながれた白い手紙が、風に舞うように大きな輪を描く。1500人を超える人がつづったのは、生きるために不可欠なのに、コロナ禍では忌避された「つながり」について。誰もが体験したことのなかった空白の時間を経て再びつながれるようになった今だからこそ、一枚一枚の手紙には人生を凝縮したような言葉が並ぶ。

 ベルリン在住の現代美術家・塩田千春さんの個展「塩田千春 つながる私(アイ)」が、大阪中之島美術館で開かれている。コロナ禍で「いかに自分が人とつながってきたか」を強く感じたという塩田さんは、故郷・大阪で16年ぶりとなる大規模個展のテーマに「つながり」を選んだ。1700平方㍍の会場に、6点の大型インスタレーション作品を制作。中でも手紙を用いた「つながる輪」は、テーマと最も直結した作品といえる。

 「病気のお母さんとあと何年つながっていられるかというものから、子どもの字で『はるちゃんとぼく』とだけ書かれたものまで」公募に寄せられた手紙にはすべて目を通した。「実際に会ったことはない人たちのメッセージだけど、大切に赤い糸で結んでいきたいと思った」。塩田さんの作品の中で赤は血液の色だという。家族や国籍など時に自らを縛ることもある赤い糸は、ここでは愛する人たちとの切実な結びつきとして存在している。

 創作の軌跡を振り返るクロノロジーのコーナーには、3点の絵画が並ぶ。その中に、出品を最後まで悩んだという1枚がある。大阪・岸和田にある実家の「タンスと壁の隙間(すきま)」に長らく置かれっぱなしだったという、20歳の頃の絵。この頃、塩田さんは大好きだった絵を描く意味を見失い、絵筆を執れなくなるほど深い悩みの中にいた。

 幼い頃から絵を描くのが大好きだった。絵画教室に通うようになると、ますます没頭。「絵さえ描いていられれば幸せで、絵を描いている時は本当の自分に会えた。画家しかなりたいものはなかった」。意思を固めたのは12歳の頃。魚箱を製造する会社を営み、働きづめの父への反発心も手伝った。「機械のように働くのではなく、もっと精神世界に生きたい、私だけの世界をクリエートしたい、と思っていました」

 絵に青春をささげた高校生活を経て、京都精華大の洋画科に進学。入学後の最初の自由課題でも迷わず100号のキャンバス5枚に絵を描いた。初めて迷いが生じたのは、展示された自分の絵を見たときだった。「旅に行ってもいい、メダカを飼ってもいい、何をしてもいい、と言われたのに、なぜ私は絵を描いたのか。説明できなかった。何を描いても誰かのものまねに見え、自分の存在とどう関わっているのか、何も答えられないと思った」

 翌年、交換留学の機会を得て豪キャンベラへ。環境は変わったが行き先も絵画科で、描けない苦しみは続いた。そんなある日、夢を見た。自分が絵の中に入り、絵そのものになるという夢。どう動けばいい絵になるのか。夢の中でも、もがき苦しんでいた。目が覚めてから、赤い絵の具を頭からかぶり文字通り絵になるというパフォーマンスにした。あえて強い絵の具を選んだというエナメル塗料は皮膚を焼き、痛みを感じたが、それを上回る解放感があった。

「絵になること」1994年 オーストラリア国立大学スクール・オブ・アートでのパフォーマンス©JASPAR, Tokyo, 2024 and Chiharu Shiota

 この「絵になること」(1994年)をきっかけに、創作はキャンバスを飛び出した。空間に絵を描くように始めた糸のインスタレーションは、後に塩田さんの代名詞となる。

 「つながる私」展のクロノロジーコーナーには20歳の頃の絵画と並んで、新作「終わりのない線」(2024年)が展示されている。キャンバスに張り巡らされた赤い糸から宇宙の無限の奥行きを感じる1枚は、一目で塩田さんのものとわかる作品だ。「あのまま絵画を続けていたら、私の絵ではなく『誰かの絵』だったかもしれない。あのとき行き詰まって、私自身ができる表現って何だろうと迷ったことが、自分のターニングポイントになった」

 96年、渡欧。その後の作家人生は幾度もの試練をくぐり抜け、そのたびに見る人の心を震わせる表現が生まれてきた。再び絵筆を執れるようになったのは10年ほど後のこと。結婚から3年、卵巣がんを患ったときだった。

2024年11月12日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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