透き通るような白い肌、肩から垂らされた細い髪。その目は何かを思い詰めるように、じっと前を見据えている。
独特の静けさをたたえたその人形のモデルは、古代史上の悲劇のプリンスとして知られる有間皇子(ありまのみこ)。飛鳥時代、孝徳天皇の皇子として生まれながら政争に巻き込まれ、数え19歳で処刑されたとされる。
7月12日、奈良市の世界遺産・平城宮跡のすぐそばにある「平城宮いざない館」で、ある企画展の内覧会が開かれた。並べられたのは有間皇子の他、大友皇子や光明皇后など、古代史を彩る人形31体だ。これらを手がけた永瀬卓(たく)さん(76)=埼玉県越谷市=は報道陣に囲まれ、少し戸惑っているように見えた。
「私の人形がこの空間に展示されているのが、今も不思議なんです」
無名のアマチュア作家だ。地元の中学校で美術教師を36年間務め、定年を迎えてから独学で人形作りを始めた。古代史、特に日本最古の歌集「万葉集」に登場する歌人、挽歌(ばんか)などをモチーフに、「趣味で」制作を続けてきた。15年あまりで作ったのは約60体。完成した作品は自宅アトリエにしまわれ、人の目に触れる機会はほとんどなかった。だが2年ほど前、ひょんなことからツイッター(現在のX)に有間皇子の人形の写真が投稿され、事態が動く。
「趣味のレベルじゃない」「鳥肌」。絶賛するコメントが相次ぎ、10万もの「いいね」がついた。そして万葉集のふるさとである奈良での「里帰り展示」を望む声が盛り上がった。
無名作家の人形を通して、古代史をたどる。こうして企画展「万葉挽歌(レクイエム) 人形からみる古(いにしえ)の奈良」が実現した。主催したのは、奈良文化財研究所(奈文研)と平城宮跡管理センター。奈文研の企画展は発掘調査の成果や出土遺物が中心で、人形ばかりの展示は初めてのことだ。
人形のモデルとなった人々の境遇は似ている。有間皇子はこんな歌を詠んだ。
「家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草まくら 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る」(家にいれば器に盛る飯を、旅にあるのでシイの葉に盛ることよ)
人形は、万葉集に収められたこの歌をイメージしている。「旅」とは、謀反の疑いで捕らえられ、護送される道中のこと。一見穏やかな表情の奥に、底知れない悲嘆や孤独が秘められているように見える。
あるいはアシビの枝を両手で祈るようにささげ持つ女性の人形。天武天皇の娘である大伯皇女(おおくのひめみこ)がモデルだ。
「磯の上に 生ふるあしびを 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに」(岩のほとりに生えているアシビを手折りたいと思うけれど、見せてあげたいあなたがいるというのではないのに)
「君」とは、弟である大津皇子。政争の中、謀反の罪を着せられて自害に至った。花を手に「あなたはもういない」と悼む歌だ。「私の人形には幸せな人は見当たりません。有間皇子の壮絶な恐怖と孤独、大伯皇女の深い深い喪失感。そんな魂に寄り添いたい」。永瀬さんはそう話す。
◇教員退職後、夢中に
1948年、越谷市に隣接する旧吉川町(現吉川市)に生まれた。幼い頃から友達を作るのは苦手だった。特に高校時代は「暗い青春」。進学校に入学したが、優秀な周囲と自分を比べて自信を失った。「自分が劣った人間のように思えた。どう生きていけばいいか分からなくなり、絶望的な孤独感にあえいだ」
救いになったのが、美術だった。子どもの時から絵を描くのが好きで、美術部に入った。フランスの画家、コローの幻想的な風景画に憧れて油絵を描いた。文化祭で同級生が感心する様子に少しだけ自信を取り戻した。「よりどころを見つけた気がしました」
東京教育大の芸術学科に進み、そこで心引かれたのが万葉集の世界だった。中でも有間皇子は特別な存在だった。「歌ににじむ孤独が自分と重なった」。当時手にした入門書の表紙が、有間皇子の人形の写真だった。人間国宝だった紙塑(しそ)人形作家の故鹿児島寿蔵(じゅぞう)の作品。穏やかなたたずまいの奥底に悲しみが感じ取れ、「私もいつかこういうものを作りたいと思いました」。
教職に就いてからは、生徒たちとの触れ合いの中で穏やかな日々を過ごした。2008年に勤めを終え、思い出したのが若き日に心打たれた万葉集と人形だった。「悲しみや孤独を凝縮して絞り出された歌は今でも人の心を打つ。才能のない私でも、心の濃度を高めて何かを生み出すことはできるかもしれないと思った」。純粋に「作りたい」という思いで制作を始め、いつしか夢中になった。
奈良での企画展は49日間の会期中に2万人超が訪れた。9月には東京・新橋にある奈良県のアンテナショップでも展示され、2日間で延べ約600人が来場した。人形に手を合わせ、涙を拭う人もいたという。永瀬さんはつぶやく。「なぜ皆さんがこれほど心を動かしてくださるのか、自分でもよく分からないのです」
記者(花澤)もSNS(ネット交流サービス)で初めて永瀬さんの人形を目にした時、スマートフォンの画面からしばらく目が離せなかった。心の中の柔らかい部分を、鈍く刺激されるような感覚があった。
令和の時代に永瀬さんの人形がなぜ人を引きつけるのか。その答えを探した。
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◆企画展で注目された無名の人形作家、永瀬卓さん
◇偶然重なり展示実現
「この人形たちは、この世の者ではない〝幻影〟なのではないか」
日本画家の中田文花(もんか)さん(57)=大阪市天王寺区=は、アマチュア人形作家、永瀬卓さん(76)の作品をそう表現する。
猛暑日が続いていた8月12日、奈良市の平城宮いざない館で、企画展「万葉挽歌(レクイエム)」のトークイベントが開かれた。永瀬さんの他、開催に尽力した関係者が登壇した。中田さんは、SNS(ネット交流サービス)に永瀬さんの人形の写真を投稿し、世に知られるきっかけを作った立役者。絵画だけでなく人形を手がける造形作家でもあり、永瀬作品に特別な魅力を感じたという。
「初めて見た瞬間『なんというはかなさだろう』と思った。それはきっと、死者たちが形を得て、自分たちはこう生きて、恋をして、そして死んでいったと語る声が聞こえる気がしたから」
能楽を引き合いに出し「能では幽霊や亡霊がこの世に現れ、自分の生き様を語ることで魂を鎮めて帰っていく。永瀬さんの人形も『鎮魂の芸術』だと感じる。明るいライトより、月の光が似合います」と語った。
出会いから企画展実現までは偶然の連続だった。2020年3月、中田さんは東大寺二月堂の「修二会(しゅにえ)」(お水取り)を聴聞するため、寺近くに宿泊していた。ある朝、宿の女性オーナーに「紹介したいお客様がいる」と言われた。偶然旅行で訪れていた永瀬さんだった。
「趣味で人形を作っています」。差し出された手作りのアルバムを見て驚いた。「趣味のレベルとちゃうやんか、って」。実は有名作家なのでは、とスマートフォンで名前を検索したものの、作品は一切ヒットしなかった。「この人形たちを埋もれさせてはいけない。そう直感しました」
永瀬さんと連絡を取り、許可を得た上でその年の6月、フェイスブックに「隠れ巨匠に出会ってしまったのかもしれません」と人形の写真を投稿。多くの友達から「言葉で表現できない感動」などとコメントが相次いだ。
目立ったのが「(人形のモデルたちが過ごした)奈良で実物を見たい」という声。中田さんも同じ思いだったが、永瀬さんは乗り気ではなかった。人形が繊細なため、運搬中に首や指が折れてしまうことを懸念したからだ。中田さんは諦めなかった。「繊細な文化財を運ぶ輸送技術もある。どこかの学芸員の目に留まり、展覧会の正式な展示品となれば運べるはず」。そこでより多くの人に届けるべく、ツイッター(現X)で22年6月に改めて写真を投稿すると、大きな反響を巻き起こした。
無名作家の人形が「バズった」ことはネットニュースにもなった。それを、奈良文化財研究所の岩戸晶子・展示企画室長(50歳、肩書は当時)が目にした。「人形の写真にビビッときた」
岩戸さんは「文化財や歴史がなぜ大切なのか、展示を通して伝えることが使命」と考えている。公的な機関として、個人の人形展の開催は難しかったが「単なる人形展ではない。人形をきっかけに、いにしえの人たちが何を考え、大切にしたかに心を寄せ、結果的に文化財を愛する人たちを増やせる。そういう展示になると考えました」。なんとか人形たちを「里帰り」させるべく上司に掛け合い、異例の企画展開催にこぎ着けた。
今年6月、人形たちは衝撃の少ない専用のトラックで運ばれた。岩戸さんは今春に奈良大教授となり奈文研での担当は後任に引き継いでいたが、学生らを連れて展示作業に関わり続けた。「歴史や文化財に関心の薄かった層も引きつけたと思う。それはやはり人形の持つ力でしょう」
永瀬さんには、胸に刻まれている小説の一説がある。井上靖の長編「額田女王(ぬかたのおおきみ)」の中で、有間皇子が語った言葉だ。
<自分は悲しみが深い時でないといい歌が生まれないような気がする。人にはそれぞれ分というものがある。悦(よろこ)びの歌を作る人もある。淋(さび)しさの歌を作る人もある。自分は悲しみの歌しか作れないような気がする>
その心情がやはり自分と重なるという。「人形を作るのは、私自身が救いを求めているからかもしれません」
◇残された者の慰めに
作品は自宅2階のアトリエで生み出される。石塑(せきそ)粘土で本体を作り、顔など繊細な部分は白色顔料の胡粉(ごふん)で整える。装束は自身で染めた和紙を細工して貼り付け、髪の毛は1本ずつ細い筆で書き込む。髪飾りなどの装飾品もすべて手作りだ。
難しいのはやはり、顔。歌から浮かんだイメージを、作りながら整えていく。最初は思うような表情ができず、何度も作り直したり、完成したものを壊したりもした。「うまくできたと思っても、粘土の乾燥で微妙に印象が変わってしまい、翌日に微調整することも多い」という。
目は、虹彩の輪郭の中に視線の方向を示す点を打つだけ。眉毛も極力描かず、眼窩(がんか)のくぼみの陰影で表現する。「描き過ぎると顔が強くなり、私の人形にはなじまない」。そんな細やかさが独特のはかなさを生む。「最も大事なのは気品。もし作品から気品がなくなったら、それが引退の時でしょう」
1体を仕上げるのに数カ月かかる。時には妥協したくなるが「人形たちの悲しみの魂を思うと、いいかげんにはできないと戒められる」。
多くの人々が人形に引きつけられるのはなぜだろうか。日本画家の中田さんはそのヒントとなるようなエピソードを教えてくれた。
中田さんは今年5月下旬、同い年の友人、田中教子さんをがんで亡くした。歌人で芸術家でもあった田中さんとは、10年ほど前にネットを通じて知り合った。アートの世界に生きる共通点もあり、すぐに意気投合。胸襟を開いて語り合った。田中さんも、中田さんを通じて永瀬さんの作品を知り、「ファン」になった。奈良での展示が内定したと知り、楽しみにしていたが、それを待たずに世を去った。
落ち込む中田さんに7月、永瀬さんからメールが届いた。「田中先生への挽歌のつもりで制作しました」。写真を見ると、右手にハギの花を持ち、左袖で涙を拭う女性の姿。天智天皇の皇子の志貴(しきの)皇子の死を悼み、笠金村(かさのかなむら)が詠んだ歌をモチーフにした人形だった。中田さんは「私も悲しんだけれど、永瀬さんも悲しかった。それをこんなにも清らかで美しい形にしてくれたことがうれしかった」と振り返る。
華厳宗で得度した尼僧でもある中田さんは、人形への思いが仏像への「祈り」にも通じると気づいた。実際、実在の人物をモデルにしたとされる仏像もある。例えば奈良・法華寺の十一面観音像は光明皇后、薬師寺の聖観音菩薩(ぼさつ)像は有間皇子といったように。「それが真実かどうかは分からないが、仏像に向き合いながら、在りし日の誰かをしのんできた先人たちがいた。永瀬さんの作品にも、大切な人の面影を重ねる人がいるでしょう。その姿は、故人だけでなく、残された者にとっても魂を慰めてくれる挽歌なのかもしれません」
次なる展示の予定は決まっていないが、永瀬さんは今後も多くの人に見てもらう機会を望んでいる。ゆくゆくは万葉歌人ゆかりの寺社への寄贈も考えているという。
資本主義が染み渡り、成長が求められる令和の世。私たちは不意に訪れる大きな悲しみをかみ締め、心に折り合いをつけるいとますら奪われているように思うのは私(花澤)だけだろうか。そんな中で、人形たちは教えてくれる。自分と同じように、止めどなく涙を流した人たちがいにしえからいたことを。悲しみや孤独を抱えながら、それでも生きてきたということを。
10年後、100年後も、きっと苦悩の種は尽きないだろう。前向きで明るい光が当たらないところにも、大切なものはあるにちがいない。
◇花澤茂人(はなざわ・しげと)(学芸部専門記者)
2005年入社。奈良支局、京都支局を経て15年から学芸部。伝統仏教を中心とした宗教や、文化財の取材を続けている。奈良市の古民家暮らし。
2024年11月3日 毎日新聞・東京朝刊 掲載