独楽園記書巻 1巻 島津久光筆 江戸時代・天保9(1838)年 彩箋墨書 25.4㌢×893.2㌢ 文化庁蔵(皇居三の丸尚蔵館収蔵)=提供写真

【書の楽しみ】
力強さと巧みさ 島津久光の筆

文:島谷弘幸(国立文化財機構理事長・皇居三の丸尚蔵館長)

 図版は、9㍍に近い長大な巻物に「独楽園記」を書いた巻末の部分である。冒頭から薄い緑、黄色、薄い藍、薄茶などの引き染めの色変わりの料紙と素紙を巧みに交用している。筆力溢(あふ)れた雄渾(ゆうこん)な筆致が魅力的である。一見して、中国の伝統的な書法に立脚した行書で、江戸時代の唐様の書に分類される作品である。

島津久光

 筆者の島津久光(1817~87年)は、江戸末期から明治初期の政治家として名高い。薩摩藩主・島津斉興の五男として生まれた。普之進、又次郎などと称した。斉彬の異母弟にあたる。

 幼時より、好学で、和漢の史籍に通じていた。はじめ、一門である島津忠公の養嗣子となり、重富島津家の当主となった。兄の斉彬が薩摩藩主となって以降、藩の治政や外交に久光の意見を重用するようになっていった。

 安政5(1858)年に斉彬の急死に伴い、久光の長子忠義が藩主となり、久光は忠義の後見人として「国父」の尊称を受け、藩政の実権を掌握した。公武合体を提唱して奔走したが実現せず、結局、薩摩藩士西郷隆盛や大久保利通らの倒幕運動にとって代わられた。文久2(1862)年8月、横浜生麦村において騎馬の英国人数人を、行列を乱したという理由で殺傷した事件は、生麦事件として、以後の薩英戦争から、開国への契機となったことは有名である。

 明治6(1873)年、明治天皇からの勅使派遣により上京し、翌年左大臣に任命された。しかし、久光は政府の富国強兵策に反対したが、入れられず、官を辞して鹿児島に帰った。以後は『通俗国史』『島津家国事鞅掌史料』などの編纂(へんさん)を推進させるなど、修史事業に専念した。

 「独楽園」は、中国宋代の司馬光が宰相を辞めた後、現在の河南省洛陽市の城南に造った庭園である。『独楽園記』は、本当の楽しみはこのようなものであるとして名付けた庭園についての司馬光の考えを述べたものである。この1巻は、原文の始めと終わり、また文言の一部を省略している。『古文真宝』後集をその典拠として揮毫(きごう)したと思われる。司馬光の独立した自分だけに許された楽しみというこの文章に共感したことにほかならない。蘇軾も「司馬君実独楽園」の詩を詠じており、この司馬光の文章は著名であった。

 巻末には、「天保九(1838)年戊戌」の款記「徳洋」の号を加えている。この「徳洋」は、久光の「忠孝二大字」(鹿児島の尚古集成館収蔵)、「祥光二大字」(玉里島津家所蔵)でも落款に用いており、若い時に用いていた雅号である。この落款より、久光22歳の筆跡と明らかである。

 筆力の強さと巧みな筆遣いはその学書のほどがしのばれ、久光の遺墨の中で出色のものといえよう。また、朱文方印「子普」は「祥光二大字」にも用いられているが、これは幼名の「普之進」からくる雅号と思われる。昭和3(1928)年、田中光顕より献上された。

2026年1月19日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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