和歌懐紙(和歌懐紙・詩懐紙貼交屛風のうち)1葉 烏丸光広筆 紙本墨書 安土桃山時代 文禄4(1595)年 33.2㌢×46.0㌢ 皇居三の丸尚蔵館収蔵(文化庁蔵)

【書の楽しみ】
滲みや擦れ 若き名筆の感性

文:島谷弘幸(国立文化財機構理事長・皇居三の丸尚蔵館長)

 烏丸光広(1579~1638年)は安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した公卿くぎょうで、歌人として自らの家集である『黄葉和歌集』を残すほか、書は近衞信尹のぶただ・本阿弥光悦・松花堂昭乗の〝江戸初期の三筆〟と並んで能書として著名で、当時を代表する多芸多才の宮廷文化人であった。ところが、普通に予想する公家とは全く異なり、決まりきった枠にとらわれない人物であった。たとえば、光広の31歳の慶長14(1609)年には官女密通事件(猪熊事件)に関与したことでも知られる。また、草の伸び放題であった光広の屋敷の屋根を見た後水尾天皇が気の毒に思って金一封を援助した、という。光広は事もあろうに、それを持って島原(高級売春婦と遊ぶ京都の遊郭のある場所)に行ったという型破りなエピソードも伝わる。

 ところが、幕府との交渉の任を任されて江戸に下向した際に徳川家康から好感をもたれたようで、その後もしばしば江戸や駿府、日光へも赴くことになり、下向は何と11度にも及んだ。こうしたエピソードが物語るように光広の書は、後世〝光広流〟とも呼ばれる独自の書風を形成し、「東行記」「田舎絵巻」など比較的薄い墨を用いた大胆で太細の線を巧みに駆使した奔放自在な書風で知られる。

 いま、この和歌懐紙をご覧いただきたい。これが、よく知られる光広かとビックリする方も多いであろう。実は、光広も少年期には公家が学ぶ伝統的な書風である持明院流を学び、やがて和歌を熱心に学んで定家流に憧れた。この若い時期には、持明院流と定家流を巧みに書き分けていた。そして中年期に至ると、今度は光悦流を巧みに執筆し、やがて到達したのが光広独自の書風なのである。

 改めて、この書を見ると、当時の公家が学ぶ伝統的な持明院流の書風である。ただ、光広は形だけを重視するのではなく、力強い筆致を展開し、にじみやかすれの妙も見せている。これが光広ならではの感性である。位署(位階と署名)の「辯(弁)」や「夕加勢かせい」などの最終画を見るとよくわかるが、懐紙に用いた料紙の表面に縮緬ちりめんのようなしわがある檀紙だんしを使っている。光広の左少弁の在任は文禄3(1594)年8月19日から翌年の11月11日まで。また、この和歌懐紙の歌題から、歌会は春に限定されるので、文禄4年の歌会で、光広は17歳の少年の公家であった。

 これが貼付ちょうふされる六曲一双の屛風びょうぶは、伏見宮貞敦さだあつ親王ほかの親王や諸門跡、公家などが詠じた和歌懐紙と詩懐紙を、屛風の一隻ごとに縦に4葉、横に6葉の都合24葉を貼り交ぜたものである。貼付された懐紙の最もさかのぼる詠進の時期は文明16(1484)年、下限にあたる懐紙は寛永17(1640)年より承応2(1653)年と推定されることや、伏見宮家の2葉から始まることから、17世紀の半ばころに伏見宮家で調製されたものと推定されている(山田千穂稿「和歌懐紙・詩懐紙貼交屛風」、皇居三の丸尚蔵館紀要『尚蔵』創刊号)。

2025年7月22日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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