安土桃山期の茶室を模した展示

 日本で抹茶の服用が始まってから約300年もの歳月をかけて、安土桃山期に千利休によって確立されたとされる茶の湯。利休の生誕500年の節目に、その形式と道具の移り変わりをたどる特別展「利休茶の湯の確立」が野村美術館(京都市左京区)で開かれている。

 展示の最初に置かれたのは、室町期の足利将軍家が使った中国からの舶来品「唐物」の数々。茶道具としての用途とは別に、来客をもてなす建物「会所」を飾り立てて権威を示すために用いられた。当時、茶室という専用空間はまだ出現していない。奥村厚子学芸員は「別室でお茶をたてて、お客様がいるところに運んでいた」と解説する。

 「南蛮毛織(もうる)抱桶(だきおけ)水指」は、八代将軍の足利義政が所持していたと伝わる。インド製で、現地では夏の暑さをしのぐために、冷たい水を注いで抱えて使った。それを茶道具に代用したもの。下部の三つ足によって自立するが、製造時にはなかったものだという。奥村学芸員は「2012年ごろに調べたところ、水指として使うために日本に来てから取り付けられたと判明した」と振り返る。

 唐物の茶入(ちゃいれ)も陳列している。肩衝(かたつき)と丸つぼの他に「北野茄子(なす)茶入」が並ぶ。豊臣秀吉が所有した来歴があり、京野菜の賀茂なすに形状が似ていることから名付けられた。「(厚みが)1㍉ほどで薄く軽い。今、同じものを再現しようとしても、材料的にも技術的にも難しい。焼いている途中で割れてしまう」と奥村学芸員は指摘する。

 足利家の豪華な「唐物荘厳」の紹介に続いて、過渡期の茶会の様子を再現している。唐物一辺倒から高麗物、茶人手製の茶杓(ちゃしゃく)、日本の禅僧の書を使うようになったことが分かる。利休の師として知られる室町期の茶人、武野紹鷗(じょうおう)作の茶杓が見どころ。茶室の登場はまだ先だが、予兆は表れていたようで、奥村学芸員は「部屋をびょうぶで仕切り、その空間でお茶を楽しんでいました」と説明する。

「南蛮毛織抱桶水指」と足利義政の名前が記された保管箱のふた

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 次のエリアは、利休が活躍した茶の湯の大成期が対象。当時の茶室を模して示している。この頃には国産の茶道具が使われる機会が増え、東南アジアのものも使われるように。利休作の「亀甲竹(きっこうちく)一重切(いちじゅうぎり)花入」が目を引く。亀甲竹の根元を使ったもので、仙台藩の伊達家に代々受け継がれた品。初代藩主、伊達政宗も愛用したと言われる。この品から花入にも時代の変化があることが分かる。青磁や金属ではなく竹製のものを茶人が作るようになった。

 安土桃山期を代表する陶工、楽長次郎の茶碗(ちゃわん)も目を楽しませる。利休に従い、赤と黒の茶碗を作ったとされる楽焼の創始者。装飾性をそぎ落とし、個性的な表現を可能な限り抑えた作風が持ち味だ。そこには利休の思想が表れていると考えられている。赤楽茶碗「獅子」、黒楽茶碗「おそらく」「大和錦」(初公開)を鑑賞できる。2種類の茶碗の違いは焼く温度にある。黒は約1000度、赤は約800度。黒に比べて赤は焼きしまっておらず、湯通しすると色合いが変わる。「その分、割れやすい。よく見ると接いでいるのが分かる。だから湯通しするのが実は怖い」と奥村学芸員は苦笑する。

 利休に関する三つの「茶席起絵図(おこしえず)」も初披露。茶室の立体的な設計図で、台紙に室内外の壁面が描かれており、折り曲げて組み立てて使う。紹鷗の住居であった「大黒庵(あん)」、奈良・東大寺にあった四聖坊(ししょうぼう)内の茶室「利休四畳半」、京都・大山崎町にある日本最古の茶室とされる国宝「妙喜庵 待庵(たいあん)」の起絵図を公開。同館のコレクションの礎を作った野村証券の創業者、野村徳七(得庵)が、自身の茶室づくりの参考のために1920年ごろに買い集めたものである。「領収書がきちんと残っています。いろいろなものをまめに書きとめたり残したりする人でした」と奥村学芸員。

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 本展は約55件で構成。利休の弟弟子だった藪内(やぶのうち)家の初代・剣仲(けんちゅう)と、中興の祖である五代目・竹心について紹介した併設展「利休と藪内家」も開催している。「得庵は藪内流をたしなんでいました。通例、本展と併設展は違う趣向の企画を行うのですが、利休生誕500年ということで、つながりを持たせました」

 特別展、併設展とも6月5日まで。月曜休館。同館(075・751・0374)。

2022年5月25日 毎日新聞・大阪夕刊 掲載

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