「秋田美人」は、明治の終わりから昭和の初めにかけては、秋田市の繁華街「川反(かわばた)」の芸者衆を指して使われた言葉だという。そんな華やかなりしころの川反を、エコール・ド・パリ(パリ派)の寵児(ちょうじ)として活躍した画家、藤田嗣治(つぐはる)(レオナール・フジタ、1886~1968年)はそぞろ歩いた。
藤田が足しげく秋田を訪れるようになったきっかけは、フランス人で4人目の妻だったマドレーヌ・ルクーの死だ。1936年6月29日、マドレーヌが東京のアトリエで急逝した。
秋田市の美術品収集家、平野政吉は、マドレーヌの葬儀から日を置かず、その死を悼む「藤田美術館」を秋田に建設することを提案する。藤田は美術館に展示するため、自作12点を平野に譲渡することを決めた。早くも7月6日に11点を秋田へ発送し、彼女の遺影となった作品「眠れる女」を自ら抱き、寝台列車で秋田に向かった。
川反の一角にある洋食レストラン「エーワン」に、当時をしのばせる品が残っている。そのころは流行のカフェーだったエーワンの初代店主、菅原憲司に、藤田が贈った画集である。
<A・Ⅰ主人 菅原兄
藤田嗣治 十一年七月十三日
秋田○○○設立の為来秋の日>
文字がかすれて読み取れないが「美術館設立」と記したのではないか。藤田はその翌日の14日、美術館の壁を飾る壁画制作を宣言した。
これ以降、藤田は毎月のように秋田を訪れ、竿燈(かんとう)まつりなどの風俗行事を取材する。年が明けて37年2月21日から15日間、平野家の米蔵で秋田の全貌を主題とした壁画「秋田の行事」の制作に集中。高さ約3・7㍍、幅20・5㍍の壮大な壁画を一気に描き上げたのだ。
エーワンの入り口右側の壁に飾られた写真に、藤田や平野が映っている。「女給」と呼ばれた接待係の女性たちに囲まれ、おかっぱ頭に黒縁丸眼鏡の藤田がひときわ目立つ。
35年10月にオープンしたエーワンは文化人たちが集うサロンのような場所だったようだ。看板屋からカフェー営業に転じた菅原は絵が好きだった。今も店に残る「日日愚録」と題した冊子に、菅原が描いた接待係の女性たちの似顔絵がユーモラスなコメントとともに記録されている。
パリ帰りの藤田にとっては、ハイカラな店のたたずまいに加え、菅原との交わりも気の置けないひとときになったのかもしれない。
「開店時間の前にやってきては、熱かんを注文したそうです」と、エーワン3代目の弘人さん(54)が言う。祖母たちから聞いた話だ。酒をたしなまない藤田が熱かんを頼んだのか。伝言ゲームのように内容が変わってしまったのかもしれないし、秋田の寒さに耐えかねた藤田が注文したのかもしれない。そんな想像を巡らせてみるのも面白い。
菅原は太平洋戦争の終戦前に40代で亡くなった。病床で「この戦争は負ける。アメリカに全部持っていかれるから、金目のものは処分しろ」と話したという。戦後、確かに進駐軍はやってきたが、客として訪れた将校たちと家族が並んで撮った記念写真が残っている。
2代目の弘三は64年に洋食レストランを開店した。子どものころから客の取り合いでけんかをする女性たちを見ていたから、それがいやで、カフェーから業態を変更したのだという。
弘三の妻、紀美子さん(83)が往時の川反を振り返る。「みんな肩をぶつけて歩くような感じ。それぐらい混雑していました。出前が多くて、朝から晩まで、よく働きました」
東北屈指の繁華街だった川反の灯はしかし、揺らぎ始める。
公費が県職員の飲食代などに使用されてきたと発覚した平成の「食糧費問題」。公務員の飲食が激減した。令和に入ってからは新型コロナウイルス禍が客足減に拍車をかけた。さらに2025年の市街地へのクマ出没……。
暗くなりがちな話題は多いが、紀美子さんは「最近、50年ぶりというお客さんが見えたのよ。うれしいね」と笑う。
藤田が描いた壮大な壁画は県立美術館に展示されている。そして90年前に「マッチ箱にでも」と藤田が贈った小さなデザイン画が、エーワンの壁に立てかけられている。
「経営はいろいろと大変だけど、2035年の100周年まで頑張りたい」
3代目は老舗の味を提供し続ける覚悟だ。

2026年3月12日 毎日新聞・東京夕刊 掲載