
◇「手芸」の枠を超えて
手の跡一つ一つに喜びが宿っている。糸の縫い目、取り合わせた布、その形。つくる喜びが宮脇綾子(1905~95年)の造形を支えていたことがよく分かる。
宮脇は東京生まれ。画家の宮脇晴と結婚し、終戦を迎えた40歳からアップリケの制作を始めた。野菜や魚といった身近なモチーフに目を留め、手芸的手法を用いて、亡くなるまで創造にひたった。そんな宮脇を、「造形作家」の側面から再考するのが「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」展(東京ステーションギャラリー)だ。
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「制作開始後、早い段階から評価されました」。企画した冨田章館長は話す。個展や本の刊行、展覧会が相次いだ。「でもそれはアップリケ作家としてでした。従来の手芸のイメージに収まりきれないおもしろさがある。それを伝えたかった」
一点一点、素材を調査し、造形性を基盤に分類した。「牽強付会(けんきょうふかい)かもしれないけど、20世紀美術の動向との共通点も見えてきたのです」。近代日本で手芸は美術の領域の外に置かれ、女性作家も同様だった。二重に周縁化された宮脇の創作を、新たに位置づけようと試みる。
「模様を活(い)かす」という章にあるのは「パイナップル」と「白菜」。二つとも布の模様が巧みにいかされている。パイナップルは、実の部分に更紗(さらさ)のような布をそのまま使う一方、とがった葉には少しずつ異なる色合いの布を使い分け、先端に茶系の布を重ねて、枯れた具合も表す。白菜の葉には緑や青を基調とした布を用い、遠くからは、幾層にも折り重なった葉に見えるのに、近づくと雲龍の模様が浮かび上がる。ざっくり編んだ光沢のある地との取り合わせも楽しい。模様のついた布を見立てて用いる大胆さと、細やかな写実性が備わっている。
創作にあたっては、まず「徹底的な観察」があったようだ。展示されているスケッチブックによると、庭のツキミソウのつぼみがふくらむ様子を数十分ごとに描きとめている。料理の前に観察が始まるので、家族はお預けをくらうことがしばしばだった、とある。
「わた」にレースを用いた「夫婦冬瓜(とうがん)」のように、野菜の断面もよく登場する。あるいは、魚の裏側や「さしみを取ったあとのかれい」まであり、創作が生活と一体になっていたことが分かる。


22歳で名古屋の晴のもとに行き、義母と3人で暮らした。つましい暮らしが身についていた義母は「どんな端切れでもとっておくように」と言い聞かせたという。だから、くたくたになったタオルはもちろん、柔道着のへりまで大切に残しておいた。当然創作にも活用し、使い古した布製のコーヒーフィルターを素材にした「フィルターのするめ」という作品もある。
捨てられてしまうような素材を使う点はイタリアで60~70年代に興った運動「アルテポーベラ」を、布の柄を大胆に合わせるのは、無関係なものを組み合わせるシュルレアリスムを想起させる--と冨田館長は言う。「自身が意識していたかは分からないが、消費社会への批判にもなっています」
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結婚前は洋服店に勤め、「デザイナーになっていたかも」という宮脇だったが、時代が許さなかった。制作を始めたのは終戦後。生活のためだった針仕事を、純粋に創作のために生かせるようになったとき、その解放感は計りしれなかっただろう。
ただ生活の合間に作っていただけではない。「木綿縞(しま)乾柿型集」「縞魚型文様集」を見れば、布への執念が分かる。新しく布を入手するたび、干し柿や魚の形に切り抜き、画帖(がじょう)に貼り付けた。その数、各1万点に上る。「骨董(こっとう)商や古布を扱う人たちとも親しくし、一生かかっても使い切れないほどの布を集めました」。素朴な木綿が見せる、シンプルだが豊かな世界。手がけた作品の数も「特筆すべきだ」と冨田館長は指摘する。「その量は趣味の域を超えている。作らずにはいられないアーティストのさがを感じます」

展示の最後には異色の作品がある。黒い地に、さまざまなくしを糸で留めた「床山さんの櫛(くし)」。整然と形が並ぶなかに、研ぎ澄まされた美がある。くしは既製品に違いない。だが彼女には、美しさを抽出してみせる力があった。「既にあるもの」にいかに美を発見することができるのか、これこそ宮脇綾子の創作だったのだろう。

展覧会には女性を中心に連日多くの人が訪れているという。中心の美術から見過ごされてきた作家を積極的に取り上げてきた東京ステーションギャラリーらしい展覧会でもある。3月16日まで。
2025年2月10日 毎日新聞・東京夕刊 掲載