東京メトロ・六本木駅の出口から六本木ヒルズの敷地に入ったところに、高さ約10㍍の巨大なクモの彫刻がある。その名は「ママン(母)」。20世紀を代表する芸術家の一人、ルイーズ・ブルジョワ(1911~2010年)の作品だ。六本木ヒルズの森美術館では、没後も評価が高まり続けているという彼女の大規模個展「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」が開催されている。約100点の作品を通して、70年にわたる活動の全貌に迫る。来年1月19日まで。
パリでタペストリー専門の画廊と修復アトリエを営む家庭に生まれたブルジョワは、20歳の時に母親を亡くした悲しみから、芸術家を志す。アメリカ人美術史家との結婚を機に米国に渡り、40年代半ばから作品を発表していたが、評価されたのは遅く、ニューヨーク近代美術館で女性彫刻家として初の個展が開かれたのは、70歳を超えてからだった。
ブルジョワの創造の源は、家族だ。支配的で不誠実な父親に対する拒絶と執着、病気に苦しむ母親の介護をしなければならない義務感にさいなまれた経験は、永続的なトラウマの原因となった。本展では、そうした複雑な家族との関係性をひもときながら、三つの章と、章をつなぐ二つのコラムで作品を紹介する。
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ブルジョワは生涯を通じて誰かに見捨てられることへの恐怖に苦しんだと言われる。その恐れは、母に対して抱いたのが始まりだった。「私を見捨てないで」と題した第1章では、作品に繰り返し登場するテーマである「母性」に焦点を当てた。作品にはさまざまな母親像が投影される。
例えば、迫力ある巨大グモの彫刻「かまえる蜘蛛(くも)」(03年)は、子どもたちにエサを与えるため獲物を捕食する強い母を象徴する。「良い母」(03年)では、ピンク色をした布製の人形の乳房から5本の白い糸が垂れ、糸巻きに巻かれている。惜しみなく乳を与える母が表現されている。「5」は、生まれ育ったフランスの家族と結婚後ニューヨークで築いた家族、両方の人数を表しており、彼女にとって大事な数字だという。
幼いころから強権的な父との関係に苦しんだブルジョワは51年に父を亡くした後、深刻なうつ状態に陥り、10年以上にわたって精神分析を受ける。作品をつくれない時期もあったが、精神分析を受けたことで、父に対する複雑な感情が作品に影響を及ぼしていることに気づく。
第2章「地獄から帰ってきたところ」では、罪悪感、嫉妬、自殺衝動、殺意や敵意など負の感情を表した作品が紹介される。
中でも強烈な印象を与えるのは「父の破壊」(74年)だろう。ブルジョワの初めてのインスタレーション作品で、赤く照らされた、暖炉とも洞窟ともみえる空間の中央に食卓が置かれ、その上に内臓を思わせる肉片が並んでいる。父の横暴に耐えきれなくなった娘と妻が、父を殺して食べるという幻想を作品化したものという。父を破壊しながらも、かみ砕き消化することで一体化するという複雑な心情が表現されている。
第3章のタイトルは「青空の修復」(99年)という作品から取られている。鉛のプレートに入れられた五つの切れ目。目や女性器を連想させる切れ目は縫い合わされているが、完全には閉じておらず、修復途中のようでもある。
ブルジョワは、平穏や自由を表す色として青を好んだという。「雲と洞窟」(82~89年)の柔らかく上向きにカーブした半円形の連なりは心の平穏を表し、淡い水色は自由や解放を象徴するという。柔らかい丸みは、子を守る母の体の曲線も想像させる。
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本展の最後には「トピアリーⅣ」(99年)という彫刻作品が展示されている。樹木の姿をした右脚のない人物像だ。右肩の傷から今まさに青色の実を実らせようとしている。
「ブルジョワは苦しみから完全に解放されるとか、過去のトラウマが完全に治癒できるとは決して信じていなかったようです」と、本展担当キュレーターの一人、矢作学さんは語る。それでも彼女は痛みと向き合い続け、自身の感情と記憶をアート作品として芸術の域にまで高めることを、亡くなる98歳まで続けた。
「地獄から帰ってきたところ…」という言葉には、さまざまな逆境を乗り越え生き抜いたブルジョワの、生きることへの強い意志が示されている。
2024年11月11日 毎日新聞・東京夕刊 掲載