『工藝』第2号(右)と『工藝學會誌』(名称変更)第4号=筆者撮影

【KOGEI!】
80年前の誇り高き理想

文:外舘和子(とだて・かずこ=多摩美術大学教授)

工芸

 今年は戦後80年という区切りの年だが、終戦の翌1946年には、前回この欄で紹介した超党派的な団体「京都工芸美術作家協会」が創設され、他にも工芸の世界で画期的な動きがあった。46年5月10日、財団法人として認可された工藝學會(こうげいがっかい)の誕生である。この工藝學會が発行する機関誌『工藝』(第4号からは『工藝學會誌』)を、幸運にもまとめて入手することができたので、同年7月発行の第2号から52年8月の第28号までを精読した。この機関誌は国立国会図書館にもごく一部しか収蔵されておらず、存在そのものも殆(ほとん)ど知られていないため、かなり貴重な史料である。

 内容はいわゆる学会発表の記録というよりも、工芸作家や工芸関係の学識者らが寄稿して誌面で発表や意見交換をするもので、第2号の表紙にはアルファベットで「KOGEI」の表記もある。巻末の会員名簿には友禅の重要無形文化財保持者となる中村勝馬の名が見られ、彼もいち早くこの工藝学會に関心を寄せていたことが窺(うかが)われる。

 ジャンルについても漆器、陶磁器、七宝、染織、ガラスなど多岐にわたり、工芸だけでなくデザインも含まれる。展覧会批評や、展覧会情報もしばしば掲載され、「第一回工藝圖案及應用作品展覧會」の募集案内や、戦後二科展に新設された工芸部門に対する厳しい批判なども見られる。例えば46年11月の第4号では二科展の工芸に対し「従来の工藝展と変わらぬ進歩性のない、国粋的な工藝を見せられたのは残念」、「もっとハイカラであり、思索の行き届いたものであり、近代工藝として世界につながる新文化創造にポイントを置くものでありたかった」など、今日の展評と比べるとかなり辛辣(しんらつ)である。

 また、創刊間もない第2号の文章中には、戦後日本の文化的な息吹を伝える記述が見いだされる。大蔵大臣を務めた澁澤(しぶさわ)敬三の叔父・澁澤秀雄の文章「文化と比率」には、澁澤が自宅でフランス語の人名辞典を見ていて、豊臣秀吉や徳川家康については、その昔日本を支配した有名な武将という2行ほどのごく簡単な紹介、対して歌麿や北斎については、日本の著名な版画家としてその作品は異色のものという説明が丁寧に記してあったといい、「文化、芸術方面のことを、せめてこの位の比率で取り扱って行く様にならなければ、これからの日本の再建は到底覚(おぼ)つかない」「日本も早く美術国、文化国家といわれるようにならなければ」と主張している。

 同誌には他にも、學會設立当初の常務理事・西川友武(前商工技師、元工藝指導所指導部長と紹介されている)による「民主主義藝術へ」などの論稿も見られ、工芸やデザインの振興で文化国家を目指そうとする意欲が窺われる。

 『工藝學會誌』に書かれたさまざまな思考、意見は、戦後間もない日本の工芸関係者たちが、芸術や文化で世界に貢献する国家であれという志を抱いていたことを示している。そこには、文化国家、芸術大国こそ最強の近代国家なのだという誇り高い理想が見いだされる。80年後の現在、我々はどこまでその理想を進めてこられただろうか。

2025年11月11日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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