午(うま)年の初めに恐縮だが、一匹の仔犬(こいぬ)をご紹介したい。「新春」(1926年ごろ)と題されたこの木彫作品は、一木で造られている。作者の平櫛(ひらくし)田中(でんちゅう)(本名・倬太郎(たくたろう)、1872~1979年)は107歳で大往生を遂げた、日本近代美術史を代表する彫刻家である。
写真では見えにくいが、仔犬が食(は)む赤い実の植物は藪柑子(やぶこうじ)で、そこだけに艶やかな彩色がされている。確かな温(ぬく)もりまでもが伝わってくるこの名品をいま、最晩年のアトリエであった東京・小平市平櫛田中彫刻美術館で鑑賞することができる。
現在の岡山県井原市に生まれた平櫛は、15歳のころ、西洋小間物問屋を営んでいた親戚筋に奉公に出され、その関係で偶然に知り得た工芸品に興味を抱くようになった。そして22歳のころ、大阪の人形師・中谷省古(せいこ)に木彫の手ほどきを受けたことで才能を見いだされ、本格的に彫刻の道に進むことになる。
転機となったのは1897(明治30)年、上京して彫刻界の重鎮・高村光雲に入門。しかし正式な内弟子にはなれず、代わりに光雲門下の兄弟子・米原雲海や山崎朝雲の仕事を手伝い、助言を得ることができたという。その結果、99年の日本美術協会展で発表した平櫛作の「樵夫(しょうふ)」(個人蔵、今回展示中)が、英国グラスゴー博覧会出品のために買い上げとなり、それを機に多くの作品を発表してゆくことになった。
平櫛が創作の精神的支柱としたのは、臨済宗の高僧・西山禾山(かざん)(1837~1917年)から授けられた「自己究明」という教えと、思想家・岡倉天心(1863~1913年)から影響を受けた「理想(イデア)」の表現であったという。
とくに岡倉が若き芸術家たちに推奨したのは、「説明的な表現」を退け、あえて鑑賞者側に「イメージを喚起する」という表現方法だった。岡倉より教示を受けた期間は5年ほどだったが、導かれたイデアの表現は終生、平櫛彫刻の根源を成した(藤井明「平櫛田中のリアリズム」)。
今回の展覧会では、岡倉が1898年に組織した美術団体「日本美術院」と、平櫛との関係に焦点を当てている。同団体は、岡倉が東京美術学校を辞職した際、連座し辞職した横山大観、橋本雅邦、下村観山らが、当時の美術界の旧弊に抗(あらが)う岡倉の思想に賛同して立ち上げた組織である。平櫛もまた草創期からこの団体と関わり、多くの作品を発表し続けた。
今回の展示では、平櫛彫刻の名作とともに、平櫛が生前に愛蔵していた日本美術院画家たちの作品も紹介されている。とくに、1962年に平櫛が文化勲章を受章したことを祝し、会員画家たちが一図ずつ描き寄せた画巻は見応えがある。安田靫彦(ゆきひこ)「富士図」を巻頭として、前田青邨(せいそん)、真道(しんどう)黎明(れいめい)、堅山南風、奥村土牛……等々、錚々(そうそう)たる画家たちの知られざる優品を、思いがけず堪能することができた。
さて冒頭で紹介した仔犬だが、なぜに「新春」と題されたのか。実はその昔、仔犬は「ゑのこ」とか「ゑのころ」と呼ばれたのだが、「ゑ」は「笑(ゑ)」の字と同音。つまり「笑う門には福来(きた)る」と同義で、仔犬は「笑福(招福)」のかたちなのである。しかも仔犬が食む藪柑子は、正月飾りに用いる縁起物で別名「十両」とも言う。本作品を制作した50代、我が子を相次いで喪(うしな)うなど、平櫛はつらい境地にあったのだが、そのような面影は一切ない。しっかりと「寿(ことほ)ぎ」を咥(くわ)えた仔犬の表情には、前を向き動き出そうとする、何か強い「意志」さえ観取(かんしゅ)できた。企画展「絵画コレクション-日本美術院の画家を中心に」は19日まで。
2026年1月8日 毎日新聞・東京夕刊 掲載