ある一つのモチーフを憑かれたように描く--。以前から気になっていた現代美術家・深堀隆介(1973年生まれ)の展覧会を、上田市立美術館(長野)で見た(現在は大阪・あべのハルカス美術館に巡回中)。深堀は唯一無二の「金魚絵師」である。間近に初めて見て、画集ではわからなかった「死」の幻影を、しかしそれ以上に、自然物でありながら時に「奇形」として生きる金魚たちへの、作家の透徹した畏敬の念を強く感じた。
かつて作家として立つことを断念する間際で、深堀を奇跡的に救ったのは、小さな水槽で長い間粗末に飼っていた一匹のメスの金魚だったという。芸術家伝説のようであるが、まさしく「ミューズ」の出現と言える。この体験を深堀は「金魚救い」と呼び、以来金魚を表現する独自技法の確立に挑み、ついに透明樹脂にアクリル絵の具で何層にも重ねて描く「2・5Dペインティング」と称される技法に行き着く。大型の水槽の中で、あたかも数千匹の金魚が水の流れを作り出しているようなインスタレーションは勿論だが、深堀のリアリズムは、有り得ない場所に出現させる金魚の、その姿にこそ宿る。
ヒノキ香も漂うような一合枡のなかに収まるリュウキンやデメキン。古い文机の開けた小引き出しのなかにも、無数のワキンが泳ぐ。盥や桶、ひっくり返った番傘の「骨」の内側にも、雨水に見立てた透明な樹脂のなかに金魚たちは潜む。どれも、色美しい金魚が「本当に」泳いでいるような迫真性だ--が、これらは全て深堀が仕掛けた「幻視」なのである。
ところで深堀様式の金魚画では、ほとんど全て水面上から金魚の「背の美」を観る。これには1500年余の金魚鑑賞の歴史が踏まえられており、金魚誕生の当時はガラス水槽などなく鉢などで飼育されたので、金魚とは元来「上から見て楽しむもの」だった。従って人の手により改良が重ねられた金魚とは「上から見る美」=「上見」が重視されたのである。またこの視線の在り方を、日本人の多くは幼いときに縁日の「金魚すくい」で体験する。つまり金魚の「上見」は、日本人にとっては幼少期の記憶とも繫がるのである。ガラス水槽の発達で今では「横見」が一般的だが、深堀は「上見」の金魚を描くことで、鑑賞者に内在する「ノスタルジー」にも波動を及ぼしているのである。
さて、深堀の描く金魚はリアルだが、実は実在する品種は一つも描いてはいない。一見博物学に基づくように見せながら、全て作家の内より創造された「架空」の生命体なのである。例えば大画面の金魚画の一つ「韓雪」。この金魚は例の上見ではなく、くるりと一回転し腹鰭側を見せたかのような姿で優雅だが、何か危うさが漂う。有り得ないほど長尺の白き尾鰭は闇に消え入り、オーロラ色の魚体がふわりと揺らめく--この無重力感は、もはや宇宙的である。画の前に佇み観ていると、水底より浮上する空気のわずかな泡が次第に、天体の遠き星のようにも、あるいはこの魚の最期の呼吸の跡のようにも筆者には見えてきた。
深堀は厳密には日本画家ではない。しかし確かに、伝統的「花鳥画」の流れの中に「金魚画」という新ジャンルを確立した画家と言える。この夏は大阪で、万博とともにぜひ訪れたい(9月7日まで)。
2025年7月10日 毎日新聞・東京夕刊 掲載