野島康三「チューリップ」(1940年、京都国立近代美術館蔵)=提供写真

【美の越境】「新美術」を世に送り出す

文:東京大大学院教授・今橋映子(比較文学比較芸術)

写真

洋画

 明治大正期、洋画の世界では、古美術ではないという意味での「新美術」をいかに世に広め、画家たちが自活でき、そして作品として評価されるか--が、大きな課題となっていた。

 岩村透(1870~1917年)という東京美術学校教授で美術批評家は、「要は食えないという問題をどうするか」を、若い美術家たちのために真剣に考え、新美術を売るための場所や戦略を考えた。

 その一つの解決法が、現代の画廊にあたる「新美術店」(あるいは「画堂」とも称す)の創設である。12(大正元)年開店の「画博堂」は岩村の強い勧めによるものであったという。岩村自身は同世代の工芸家たちとともに、「吾楽殿」(11年)を創始し、そこで最先端の工芸作品を厳しい相互批評で創り、一般市民に販売するという方策も立てた。

 同じく10年に、彫刻家で詩人であったあの高村光太郎も、「琅玕洞(ろうかんどう)」という画堂を開いたことは知られているだろうか。光太郎もまた洋画のみならず版画や工芸まで広くジャンルを越境する作品を展覧しようとしたのである。

 今回、埼玉県立近代美術館で単館開催されている「野島康三と斎藤与里-美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展(2026年1月18日まで)は、光太郎と同世代、岩村より半世代若い写真家と洋画家、共に埼玉生まれの優れた創作家二人の、それぞれの歩みを堪能できる展覧会である。

 ただそれだけでない。今回は、銀行家の裕福な実家のお陰もあって、その富を画堂の創設や美術家支援に惜しみなく使った野島康三の活動と、彼と協働した斎藤与里の活動にも焦点を当てる、盛りだくさんの展覧会になっている。

 斎藤は野島に油彩画の技法を教えた存在だが、彼らは師弟というより、友人あるいは同志と言うべきだろうか。

 驚くのは野島の「兜屋画堂」(19~20年)、およびその後自邸を画堂とした活動(22~34年ごろ)で取り上げられた「新美術家」の名前である--梅原龍三郎、関根正二、村山槐多(かいた)、中川一政、恩地孝四郎といった洋画家たちのみならず、岡田三郎助を筆頭とする装飾美術家、藤井達吉や富本憲吉、高村豊周(とよちか)といった工芸家たち、あるいは山本鼎(かなえ)の児童画まで、ジャンルを超えた新しい才能が次々と紹介されたのである。

 野島自身は写真史ではいまやよく知られる存在で、岸田劉生の画風を思わせるような重厚なピクトリアリズム写真からスタートし、30年代には日本におけるモダニズム写真の根拠地となった雑誌『光画』(32~33年)の同人(他に中山岩太、木村伊兵衛、伊奈信男)であり、表現者であり、出資者でもあった。ここでもまた、日本の新興写真の支援者であったという見方ができる。

 10年代以降、東京には多くの画堂が開店し、新美術は、文展のような公的展覧とは別のルートを持つことで、社会と繫(つな)がり、顧客を得て、批評や評価の機会を得ることができた。つまり近代のアバンギャルド芸術は、こうした「場」の創始と不可分な関係にあったのだ。

 野島・斎藤の二人展は埼玉を機縁として、深く新美術創出の歴史へと私たちを連れていく。彼らのコラボレーションの熱気にあてられつつ、できるならば将来、吾楽殿、琅玕洞や兜屋画堂で開かれた展覧会そのものの再現展に立ち会えないだろうか--そんなむちゃな空想に浸りつつ、北浦和公園の深まる秋の小径(こみち)をたどった。

斎藤与里「秋海棠」(50年、埼玉県加須市蔵)=提供写真

2025年12月11日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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