絹谷幸二さんが亡くなった。昨年の夏頃から具合が悪いと聞いていたものの、この5月には個展会場でギャラリートークをされたと耳にして、何となく安心していた。いつもエネルギッシュで、病気の影など感じさせなかった絹谷さんがこんなに急に旅立つとは残念でならない。包容力のある笑顔と優しい声が、今なお記憶によみがえる。
絹谷さんの色鮮やかでバイタリティー溢(あふ)れる作品は、ずいぶん前から見知ってはいたが、直接お会いするようになったのは2016年で、若手芸術家を支援するために08年に毎日新聞と共に創設した「絹谷幸二賞」の選考委員の一人に加わってからだ。
驚いたのは、絹谷さん本人は賞の選考に全く関与せず、選考委員の選定に関しても口を出さないことだった。すべてを事務局に委ね、授賞式に出席するだけだった。毎年、本賞1名と奨励賞1名、10年続いたので、計20名(うち13名が女性)の受賞者が生まれた(23年から、産経新聞社主催で「絹谷幸二芸術賞」と改称し、今度は絹谷さんも審査員に名を連ねたが、実際にはほとんど関与されず、今年まで2度授賞式が開催された)。
絹谷さんに力強く後押しされた受賞者の活躍は著しく、美術館での個展やグループ展への出品はもとより、作品が美術館にコレクションされた人も少なくない。ごく一例だが、西村有と横山奈美が金沢21世紀美術館で個展、今津景は東京オペラシティアートギャラリーで今春に大規模な個展を開催、私が所属する国立国際美術館(大阪)では、後藤靖香、橋爪彩、谷原菜摘子、坂本夏子、小沢さかえ、横山奈美の作品が収蔵された。
賞を創設した理由は、かつて画家の登竜門であった安井賞を当時最年少の31歳で受賞して、それが大きな励ましになった自身の経験に加え、コロンビアの現役の画家の名を冠した「ボテロ賞」の選考委員を務め、若い世代の元気のいい作品を目の当たりにしたのがきっかけだ。
画家として円熟期にさしかかっていた絹谷さんにとって、他者の幸福が自身の幸福にもつながる「利他」の精神をこの賞で表現していたのかもしれない。文化庁と日本芸術院による社会貢献事業「子供 夢・アート・アカデミー」に積極的に関わったのもよく分かる。将来を担う子供たちのために、全国行脚して美術の出前授業を行ったのだ。
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絹谷さんは、1943年奈良市に生まれ、物心ついた頃には油絵に親しむ。62年に東京芸術大学の油画専攻に入学、同大学院にも進む。27歳の時、壁画科で行われたアフレスコの第一人者ブルーノ・サエッティによる集中講義に刺激され、翌71年に伊ベネチア・アカデミアに留学、73年に帰国後、安井賞に推薦された「アンセルモ氏の肖像」(73年、東京国立近代美術館蔵)が受賞となり、一躍脚光を浴びる。アンセルモは絹谷さんがイタリア留学中の親友で、色の帯で顔面が崩れる様子は、「形あるものはいつか壊れていく」という絹谷さんの無常観の表れだという。口元から放たれる言葉や記号は、その後の絹谷さんの作品を構成する極めて重要な造形要素となった。
何よりもアフレスコという古典画法を現代のみずみずしい絵画によみがえらせた功績は他の追随を許さない。後年は、古代神話や仏像などを大胆かつユーモラスに描く一方、富士山やベネチアの風景など親しみやすい画題も数多く手がけ、亡くなる直前の個展では、色彩の渦にのみ込まれるように七福神を自在に漂流させ、来場者を楽しませた。
絹谷さん、ありがとう。
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絹谷幸二さんは1日、悪性リンパ腫のため死去。82歳。
2025年8月18日 毎日新聞・東京夕刊 掲載