
4月下旬、東京・日本橋で開かれた講演会に、日本画家で絵本作家の小林豊さん(78)の姿はあった。講演会のテーマは「日本画家・絵本作家が語る日本橋の魅力」。昨年6月に刊行した最新作『えほん ときの鐘』(ポプラ社)では、江戸時代の日本橋を舞台に、時を告げる鐘つき役の孫とオランダ人の交流を描いた。
「私は東京の生まれ。現在の東京から見ると、想像のつかないような景色がかつてありました。この土地の下には歴史・文化が何層も積み重なっている。そのことを今の子どもたちと語り合い、共有してみたいと思います」
絵本作家となり30年。これまで、国内外を旅してきた経験を日本画や絵本として表現してきた。アフガニスタンを何度も旅した経験を基に、戦争の中でも力強く生きる人々を描いた絵本『せかいいちうつくしいぼくの村』(ポプラ社)など、小林さんの作品は自身が目にした情景が素地となっている。
終戦直後の1946年、東京の下町・深川に生まれた。当時の深川は空襲で焼け野原になり、空き地だらけ。子どもにとっては格好の遊び場で、一日中外で遊び回った。
当時、深川には花街があり、華やかな世界が日常のそばにあった。三味線の音、芸者たちの笑い声、食べ物のにおい……。物売りの声や潮風のにおいも混ざり合い、幼少期の小林さんの日常を形作っていた。「刺激が原色でした。見ているだけで楽しくて。情景や音、においがごちゃ混ぜで頭の中に入っていて、記憶の中に積み重なっているんです」と振り返る。
当時、小林さんにとって本は縁遠い存在。目を向けたのは町の外の世界だった。小学生の頃から自転車で千葉へ行くなど好奇心旺盛だった。「本を読むより外への興味がありました。いろんな町を見るのが好きなんです。その延長線上に、旅があります」と笑う。
中学・高校時代には美術部に所属した。だが、きっかけは「文化的なものへの憧れ」で、画家になりたいとか、絵で身を立てていこうといった考えはなかった。立教大学に進学後は芝居にのめり込んだ。学生時代から舞台演出に関わり、卒業後も就職せずに舞台の仕事やアルバイトで収入を得た。そして、お金がたまった頃、旅に出ることにした。知らないところを見なくてはいけない――。その思いが、ずっと胸の内にあった。「隣の町を見てみたいんですよね。だから、初めての海外は、一つ一つ港に止まる船旅でした」
69年、小林さんは横浜からフランス・マルセイユに向かう貨客船に乗り込んだ。45日間の船旅だった。途中、船は貨物の積み下ろしのためにタイやシンガポール、インドの港に立ち寄りながら、マルセイユを目指した。「港によって音もにおいも違う。貧乏旅行でしたが、ぜいたくで素晴らしい体験でした」
マルセイユに到着後は、フランス国内やイギリスで語学学校に通ったり、芝居を見たりと遊学した。だが、ヨーロッパの整然とした町並みは小林さんにとっていつしか刺激を受けるものではなくなっていった。71年、小林さんは「船から眺めてきた国々を見て回ろう」と陸路での帰国を決めた。
車やバス、馬車、ラクダ、ロバとさまざまな動物や乗り物で西から東へと進んだ。忘れられないのは、イラン南東部に位置するルート砂漠だ。昼間は気温が60度近くまで上がるが、岩や木など日差しを遮るものがなく、黄色い砂が一面に広がる。小林さんは昼間はオアシスなどの水場で休み、夜に車で移動。2週間ほどかけて、横断した。

砂漠を越えた先にあったのが、アフガニスタンだった。国境を越え、南部の大都市、カンダハルに入った。そこで見たのは、人々の生活が息づく市場だった。たそがれ、ガス灯をともした夜店が連なる中で、売り子たちの声がざわめきを生み出し、肉の焼けるにおいが漂う。その景色が、ふるさと・深川の町並みと重なった。「砂漠ではにおいも感じず、空気が澄み通っていた。アフガニスタンではにおいがあった。魅せられましたね」
シルクロードの要衝にあるアフガニスタンは、「文明の十字路」と称される。さまざまな文化が混ざり合った食事や人々の生活、景色に小林さんはどんどん魅了されていった。やがて、アフガニスタンは小林さんにとって深い関わりを持つ国となっていく。
2025年05月13日 毎日新聞・東京朝刊 掲載