パリの「日仏交流150周年記念プロジェクト」の現場で娘のリーサ明理さん(左)と石井幹子さん(後ろに写るのはセーヌ川とアレクサンドル3世橋)=石井幹子さん提供

 照明デザイナーの先駆者である石井幹子さんは、働く母親としても先駆けだろう。娘のリーサ明理さんが生まれたのは、忙しく駆け回った大阪万博の翌年の1971年だった。

 リーサ明理さんのミドルネームは、フィンランドの恩師、リーサ・ヨハンソン・パッペさんからもらった。世界で仕事をする上で、ミドルネームの必要性を痛感していた。「私は結果的に『モトコ』で通しましたが、アメリカでもヨーロッパでも覚えにくい名前なんですね。早い時期にミドルネームを付けておけばよかったと思いましたが、後の祭り。それで娘には、どこの国の人にも覚えてもらえるようなミドルネームを付けようと思ったのです。それにはパッペ先生のお名前をいただくのがいいわと。お電話しましたら喜んでくださいました。ありがとうはフィンランド語でKiitos(キートス)というのですが『キートス、モトコ』って」

 現在よりさらに保育施設が整っていないころ。子育てしながら働くのは容易ではなかった。それでも「絶対に仕事はやめたくなかった」と話す。当時すでに事務所を立ち上げ、3人のスタッフを抱えていた。すぐに仕事に復帰しなくてはならず、とりあえず家政婦を雇いながら、保育園を探した。しかし〝フリーランス〟では相手にされなかったという。区議に陳情の手紙も書いたがナシのつぶて。「自分の収入のほとんどを家政婦さんに支払っているような時代が何年も続きました」

 娘が小学校に入学すると、目覚まし時計を手渡した。「これからは自分で目覚まし時計をセットして起きて、学校に行きなさいと。朝、時間になっても起きてこなくて、やきもきしたこともあります。でも決して起こしませんでした。遅刻しても自分の責任。自分のことは自分で決めて自分でやるように、としつけました」。寂しい思いをさせたかもしれないと思うことはある。幼稚園や小学校で「働く母親」を持つ子は、当時ほとんどいなかった。「周囲の人からは『お母さんがいなくてかわいそう』と言われていたみたいです」

 一度だけ「どうしてお母さんは家にいないで仕事をするの?」と聞かれたことがある。その時の石井さんの答えが秀逸だ。「あなたが生まれるより前にお仕事していたの。あなたの方が後から来たのよ」。どう納得したのかは分からないが、以来「仕事って面白そうだ、お母さんは何だか楽しそうにやっていると思ったらしく、中学生になると、仕事に出る時に『頑張ってね』と言ってくれるようになりました」。

 そして、成長した娘は母と同じ照明デザイナーの道を選んだ。フランス・パリに事務所を構え、世界で活躍している。その影響もあり、石井さんのヨーロッパでの活動も増えた。母娘共同で取り組むプロジェクトも多い。

アレクサンドル3世橋のライトアップ=石井幹子さん提供

 初めてタッグを組んだのは2008年、日仏交流150周年記念行事だ。在フランス日本大使館の誘いで、セーヌ川にかかる25の橋を、照明機材を載せた船で順にライトアップし、ノートルダム大聖堂が建つシテ島の岸壁に日本の美術を投影し「光のメッセージ」を映し出した。ベルリンのブランデンブルク門、ローマのコロッセオ、パリのエッフェル塔、日本の新歌舞伎座……母娘の共同作業はその後も続いていった。「照明デザイナーになりたいと言われた時には、予期していなかったのでびっくりしました。さらに、修業ののちパリで独立すると宣言された時には、椅子から転げ落ちそうになるほど驚きましたが、ヨーロッパでのイベントでは『あなたがパリで立派にやっているから、こうしてできるのね』と感謝しました。アイデアを出し合うのはもちろん、現場のチーム編成や指揮も頼めますし、娘は私の最大の理解者であり、最強のパートナーです」

 日本の夜景を美しくしたいと、〝実験〟と称して自費で日本各地のランドマークを照らした「ライトアップ・キャラバン」から約50年。景観照明(ライトアップ)は日本にしっかりと根付いた。今、改めて小さな光を大切にしたいと思っている。「日本の家庭の照明がもっと優しく美しくなるといいなと思います。高齢者のための明かりも開発したい。初心に帰って、おしゃれでわくわくするような照明器具を作りたいですね」。光の可能性を開拓する〝旅〟はこれからも続く。

2025年1月27日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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