インタビューに答える照明デザイナーの石井幹子さん=宮間俊樹撮影

 フィンランドで照明器具のデザインを、ドイツで建築照明を学び、石井幹子さんは1967年に帰国。照明デザイナーとしての一歩を踏み出した。「当時、日本の夜景は非常に貧しいものでした。歴史的な建造物に光を当てるといった、その街らしい景観をつくる照明などは全くありませんでした」。さらに73、78年と、2度の石油ショックが「電気を使う照明は悪」という先入観を植え付けていた。

 そんな折、79年に国際照明委員会の世界大会が京都で行われることを知り、その前年、夜景を観察に京都へ行ったという。「前回の開催地、英ロンドンではテムズ川の橋が新しく照明され、国会議事堂などの歴史的建造物も柔らかい光で照らされて、見事な夜景でした。そのあとに開催される日本の古都の夜景はどんなものだろうと、心配になったのです」

 ところが、見えたのは道路灯の列と繁華街のネオンサイン、パチンコ店の派手な照明だけ。昼間見えていた寺の屋根や塔は闇に沈んでいた。「こんな夜景では、海外のお客さまに恥ずかしくてお見せできない」。いても立ってもいられず、京都市役所に駆け込んだ。しかし、らちが明かない。「市役所からしたら、東京から来た誰の紹介もない女性の話なんて聞いてくれないわけです。相手にしてくれないなら自分で計画案を作ってしまおうと」

 京都市景観照明計画という架空のプロジェクトを自ら立ち上げ、一人でプランを練った。72カ所を照らし、総工費は約1億円。一晩の電気代は約1万円との見積もりを出し、再び市役所の観光課を訪れた。それでも取り合ってはもらえなかった。「分かりやすく『ライトアップ』と呼びましたが、都市景観照明が何なのか、よく分からないのだろうと感じて、実際に照らしてみるしかないという結論に達しました」

 環境照明研究会と銘打ち「ライトアップの実験をしたい」と、許可を得るため二条城と平安神宮、警察や消防に何度も出向いた。いざライトアップが始まると「映画の撮影と思ったようで、見物人が大勢やってきました」。集まった人たちにはアンケートを取った。女性はほぼ100%、男性も70%台がライトアップに賛成だったという。

 「一人でも多くの人にライトアップを見てもらえたら、良さは分かってもらえる」。講演や会議などさまざまな機会をとらえては、各地でライトアップの〝実験〟を行った。名付けて「ライトアップ・キャラバン」。札幌、仙台、金沢、名古屋、大阪、神戸、広島……年に約2回のペースで8年間。負担はすべて自費で行った。「我ながら、よく頑張ったなと思います」

 ようやく本格的なライトアップの依頼が来たのは86年夏のことだった。「市内の代表的な建物をライトアップするイベントを企画しているので、デザインをお願いしたい」。横浜市の都市デザイン室からだった。〝ジャックの塔〟の愛称がある開港記念会館、〝クイーンの塔〟の横浜税関、〝キングの塔〟神奈川県庁をはじめ、開港資料館や県立歴史博物館など12の建物を選び、照明で彩った。最初の開港記念会館を照らすライトが点灯した時、訪れた見物人から「わーっ」と歓声が上がった。来場者は10日間で約80万人にも上った。「ライトアップの素晴らしさを分かってもらえたとうれしかった。キャラバンをやり続けたかいがあったと感慨もひとしおでした」

美しくライトアップされた開港記念会館(ジャックの塔)=横浜市で1986年(石井さん提供)

 横浜の後には、東京駅の赤レンガ駅舎のライトアップも手がけた。ちょうど国鉄が分割民営化され、JRへと変わろうとするころ。先行きを心配する職員たちに明るい話題を提供しようという試みだったという。「ライトアップの光には、昔の記憶をよみがえらせる不思議な効果があるようです。点灯式では、子どものころ出征する兵隊さんを見送ったとか、戦後の駅前は惨憺(さんたん)たる状態だったとか、列席者が口々に思い出を語っていました。赤レンガ駅舎はずいぶん傷んでいて、実は取り壊して高層ビルを建てる予定だったそうですが、ライトアップをきっかけに、残してほしいという声が上がり、元の形に復元し残すことになったのです」

 2件のライトアップは話題となり、街ぐるみの大きな計画に携われるようになった。「ようやく光の美しさ、楽しさが認められたのです」。日本の〝ライトアップ元年〟である。

2025年1月20日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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