
その日、照明デザイナーの石井幹子さん(86)の姿は東京・上野公園にあった。企画デザインを手がけた上野東照宮のライトアップ点灯式。「3、2、1、点灯!」。薄暮の中に金色に輝く上野東照宮の社殿が鮮やかに浮かび上がった。「おーっ」。その荘厳な輝きと美しさに、会場内から歓声が上がった。今やすっかり日本に定着したライトアップだが、それは石井さんが築き、歩んできた道のりに他ならない。
1938年、東京生まれ。小学校1年生で終戦を迎えた。戦争で父を亡くし、石井さんを筆頭に3人の幼子を抱え苦労した母を見てきたこともあり、「中学生ぐらいには職業を得て自立したいと思っていました」。だが友人たちが「弁護士になりたい」「医者を目指す」「大学教授がいい」などと将来の夢を語る中、「私はいったい何になったらいいんだろう。自分の得意なものは何だろう」と考えあぐねていたという。
道が開けたのは、高校生になってたまたま見た展覧会がきっかけだ。東京国立近代美術館で開催された「グロピウスとバウハウス」展。そこで初めて「工業デザイナー」という職業があることを知った。「私は教科では理科が非常に好きで、小さいころは発明家になりたかったぐらい。工場見学で大量生産で物ができるのを見て、工場にも興味を持っていました。工業デザイナーなら、生産の現場にも携われるし、絵がうまいと言われていたので、自分にぴったりではないかと思ったのです」
だが、目指す職業は決まったものの、どうやってなるのか分からない。悩んだ末、学校の図書室にあった雑誌「工芸ニュース」の編集部に手紙を書いた。しばらくすると、編集長から返事が届いた。そこには、日本で工業デザインを学べる国立の大学は、東京芸術大の図案計画科か千葉大の工業意匠科(いずれも当時)だと書かれていた。「祖父からは国立大なら行ってよいと言われていたので、自宅から通える東京芸大を目指すしかないと。予備校に行ったのですが、周りはうまい人ばかり。できるだけ上手な人の近くで描いて、いろいろな手法を覚えました。一生懸命でした」。そのかいあって無事合格。図案計画科の新入生36人中、女性は7人、現役生は3人だった。
大学卒業後は、学生時代からアルバイトとして出入りしていたデザイン事務所「Qデザイナーズ」で、工業デザイナーとして歩み始めた。
照明と〝出合った〟のは24歳の時だ。デザイン展に出展する照明器具のデザインを任されることになった。「試作品が出来上がって電源を入れた時、あっと驚きました。テーブルに置いてあったコーヒーカップや本がくっきりと浮かび上がったのです。空気がなければ人が生きられないのと同じように、光がなければ物の形も色も分からない。光があってこそなんだと感動しました。そして、もっと照明器具のデザインをしてみたいと思ったのです」
当時日本では、照明は照明光学という電気工学の一分野でしかなかった。照明デザインを学ぶにはどうしたらいいかと思案していた時に見つけたのが、北欧デザインを紹介する分厚い本だった。そこには美しい家具や家庭用品、テキスタイルのデザインがカラーで紹介されていた。「月給の半分をはたいて本を買い、丹念に読みました。それで北欧で学びたいと思ったのです」
まずは奨学金を探したが、日本人を受け入れる制度はなかった。当時、海外へ持ち出せる金額は1人500㌦が限度。自費留学では3カ月暮らすのがやっとだ。実家は頼れない。さてどうするか。「ひらめいたのが、働きながら学べないかということでした」
くだんの本の中で、とりわけ美しい照明器具をデザインしていたのが、フィンランドのストックマン・オルノ社だった。そのデザイン室長だったリーサ・ヨハンソン・パッペさんに手紙を書き、手作りの作品集とともに送った。「あなたの下でアシスタントとして働きたいのです」。2カ月半後、返事が来た。「あなたを雇いましょう」
横浜港から船でソ連(当時)のハバロフスクへ。その後、汽車と飛行機を乗り継ぎモスクワに入り、そこから夜行列車でヘルシンキへ向かった。「国境を越えるころ、ちょうど夜明けでした。美しい風景や駅舎を見て、いよいよフィンランドへ来たんだわと、感激しました」。65年の夏だった。

2025年1月13日 毎日新聞・東京朝刊 掲載