◇憂鬱な社会の抑圧と解放
1980年代の英国はサッチャー政権の下、新自由主義的な政策が推進され、失業者の増加、格差の拡大といった社会問題が顕在化した。閉塞(へいそく)感が漂う中、80年代後半に生まれた潮流を担ったのが「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBA)」と呼ばれる若手アーティストたちだった。
彼らは身の回りの現実や時代感覚を鋭く反映した独創的な作品を手がけ、発表の場を積極的に開拓した。そんなYBAと、同時代の作家たちに光を当て、現代につなぐ「テート美術館-YBA&BEYOND」展が東京・六本木の国立新美術館で開催中だ。ロンドンにあるテート美術館のコレクションを軸に約100点を展示。テーマの異なる6章立てで90年代の英国美術を再検証する。
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プロローグを飾るのは3枚の絵。各画面とも、血の色を思わせる濃厚な赤を背景に、動物とも人間ともつかない存在が身をよじらせている。20世紀を代表する英国の画家、フランシス・ベーコンの連作「1944年のトリプティク(三幅対)の第2ヴァージョン」だ。人間の暗部を見つめ続けたベーコンは、後続世代のYBAに大きな影響を与えた。鑑賞者は不穏な空気を感じながら、本展に足を踏み入れることになる。
くしくもこの作品が発表された88年、ロンドン大ゴールドスミス校の学生たちが自主企画の「フリーズ」展を開き、美術界の現状に異を唱えた。後にYBAの出発点と位置づけられる展示だ。彼らは既存のギャラリーを介さず、自らスポンサーに売り込んだ。郊外の空き倉庫を会場に選んだのも当時としては斬新だった。「裕福な層に目を向けていた保守的な業界を、大胆にも自分たちの手で変えようとした」とテート美術館の現代美術部門キュレーター、ヘレン・リトルさんは解説する。
新しい世代の登場をテーマにした第1章は、フリーズ展を企画したダミアン・ハーストさんらの作品が並ぶ。「後天的な回避不能」(91年)と題された彼のインスタレーションは、オフィス用の机と椅子、そしてたばこの吸い殻であふれた灰皿を巨大なガラスケースで密閉し、逃れられない「死」を暗示する。
暴力や死、性のタブーをめぐる表現が今展で目立つのは、当時の社会不安にも由来するのだろう。医療や身体をテーマにした章では、YBAを代表するマーク・クインさんの「逃げる方法が見当たらないⅣ」(96年)がグロテスクで目を引く。天井からぶら下がる赤褐色の裸体像。爪先から首元までめくるように背面が剝がされ、背中側の足首がロープで縛られ、つるされている。魂の抜け殻を連想させる一方、肉体を脱しても逃れられない実存的な不安が漂う。
80~90年代には、エイズをめぐる危機が深まり、エイズウイルス(HIV)感染者に対する差別も生まれた。同じ部屋に飾られる「運動失調-エイズは楽しい」(93年)は、映画監督で同性愛者の権利擁護活動家でもあったデレク・ジャーマンの油彩画だ。エイズを発症したジャーマンは視力が低下する中、指で直接描いた。タイトルにある皮肉交じりの言葉が刻まれた画面。さまざまな色が飛び交い、世の偏見に対する抵抗のエネルギーをたぎらせる。
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社会を覆う憂鬱な空気は一方で、新しいカルチャーの土壌にもなった。音楽の持つ開放性やファッションの多様性が、アーティストたちの創造のパワーになったのだ。ロンドン発のストリートカルチャー誌「i-D」を発表の場とした写真家ヴォルフガング・ティルマンスさんは、90年代に親しい友人やクラブシーンの若者たちを捉えた作品で注目を集めた。サブカルチャーなどを扱った章では、額装されていない写真が目立つティルマンス作品をはじめ、権威的なアートの概念をDIY精神で塗り替えようとする自由な表現が壁を彩る。
章と章をつなぐ「スポットライト」のコーナーも見逃せない。10代だった自身の性体験をめぐる告白から始まるトレイシー・エミンさんの映像作品は、身体の抑圧と解放を生々しく映し出す。コーネリア・パーカーさんが91年に発表したインスタレーションは英国陸軍に依頼し、家の物置小屋を爆破した無数の残骸から成る。当時はアイルランド共和軍(IRA)による爆破事件が英国全土で起きていた。残骸を空間にちりばめて「爆発の瞬間」を再構築した光景は、破壊からの創造を象徴し、一瞬の美を演出する。

政治的な混乱やマイノリティーへの差別など自らをとりまく問題を直視し、生きる苦悩や喜びを作品に昇華させた90年代英国の作家たち。彼らは手探りでそれぞれの表現を見いだし、アイロニーやユーモアを込めて社会に訴えた。格差と分断が深まる今、その反骨精神に学びたい。5月11日まで。
2026年4月20日 毎日新聞・東京夕刊 掲載