太田喜二郎の手紙の差出人部分を切り抜いた「署名貼付帖」(部分)。犬養毅(左から二つ目)や尾崎行雄(左端)ら政治家の名前も見える=京都文化博物館提供

 ◇近代京都の文化動かした人々、豊富な資料で

 大正から昭和にかけての京都画壇で活躍した洋画家、太田喜二郎(1883~1951年)。その交友関係に注目した展覧会「近代文化人ネットワーク 太田喜二郎の周辺」が、京都府京都文化博物館(京都市中京区)で開催中だ。太田が残した膨大な資料から、書簡や写真、スケッチなど約70件を展示。画壇にとどまらない幅広い交友関係を掘り起こし、文化芸術の面で近現代の京都を形作った人々の姿を浮き彫りにしようという意欲的な企画だ。

太田喜二郎

 太田はベルギーの印象派を代表する画家、エミール・クラウスに師事し、点描技法を用いた洋画を描いたことで知られる。ただ、資料の調査を進めてきた同館の植田彩芳子(さよこ)学芸員は「美術史の視点だけで見ると多くのことがこぼれ落ちてしまう」と強く感じたという。太田について、これまでに「日本考古学の父」と呼ばれる京都帝国大教授・浜田耕作、国重要文化財の「聴竹居(ちょうちくきょ)」(京都府大山崎町)を手がけた建築家・藤井厚二との個別の交流をテーマに展覧会を開いてきたが、今回はより幅広く全体像を見渡せる内容を目指した。

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 冒頭に展示される「署名貼付帖(ちょうふちょう)」が象徴的だ。太田は受け取った手紙の封筒に書かれた差出人の署名を切り取って貼り付けた手帳を作っており、その数はのべ158人分。黒田清輝や竹内栖鳳(せいほう)ら画家だけでなく、歌人の与謝野晶子、実業家で茶人の益田孝、5・15事件で暗殺された犬養毅の名もある。

 京都・西陣の織物商の家に生まれ、京都府尋常中学校(現・府立洛北高)から東京美術学校(現・東京芸術大)に進学。ベルギー留学を経て1920年に京都帝大の講師となる。ここで浜田や藤井、「広辞苑」の編集で知られる言語学者の新村出(しんむらいずる)らと出会い親交を深めた。残された書簡が交流をしのばせる。

 浜田が手がけた石舞台古墳(奈良県明日香村)の発掘調査にも美術家として協力。発掘の様子を戯画風に描いた「石舞台古墳発掘見学絵巻」(パネル展示)には、大阪毎日新聞社(現・毎日新聞社)で京都支局長を務めた岩井武俊を巻き込み、割烹(かっぽう)で航空撮影計画を打ち合わせた場面などが臨場感たっぷりに描かれている。また調査報告書の巻頭には古墳を描いた太田のパステル画が。考古学が専門の同館の村野正景学芸員は「写真を使うことが多く、絵は珍しい。太田と浜田の関係を象徴するようだ」と話す。

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 会場には2021年に遺族から新たに寄贈された絵画9点も並ぶ。その中には「貴船の秋」(1934年)など、京都の風景を描いた作品もある。「画家としての視点で、敏感に町の美の変化を意識していた」と村野さんは語る。それを表すのが景観保護への関わりだ。30年1月の「大阪毎日新聞附録(ふろく)」には、太田や浜田、新村らが出席して京都の風致保存を語った座談会が掲載され、太田は「ペンキ塗りの看板の制限をやつたらどうでせう」「もつと小さくなつても京都には絵かきも多いことで美術的になれば効果を減するわけではないでせう」など、看板を芸術家に任せることを提案している。また33年には府から風致委員に嘱託される。「太田は美術界の代表と位置づけられると同時に、その私的な親交が公的な意味を持ち、京都をどのような町にするか方向付ける役割も果たした」と村野さん。京都の近代史、そして未来を考える際にも注目したい人物だ。

 23日まで。同館(075・222・0888)。

太田の「貴船の秋」1934年=京都文化博物館提供

2022年1月17日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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