1970年大阪万博前後の時期について、前衛美術や具体美術協会(具体)の動きを再検証する催しが3月、兵庫県芦屋市で開かれた。具体発祥の地で「精神が自由であること」を次代の創作に受け継ごうとする民間有志のAAP(アシヤアートプロジェクト)が主催。講演やダンスの試演、トークセッションが行われた。
基調講演した乾健一・茨城県近代美術館学芸員は、70年万博の会場に「大彫刻」を設置する8作家の一人に選抜された高松次郎(1936~98年)に注目した。会場の「日曜広場」に大型構造物を配置した「遠近法による広場」は、地上に引いた線も用いて透視図法で捉えられた空間を表現し、遠くのものほど小さく見える人間の視覚構造について思考を促すもの。その数年前から高松が手がけていた「遠近法」シリーズのなかでも最大級の作品だ。
一方、高松は同時期に「人間と物質」をテーマに東京などで開かれた第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)にも出品。ミニマルアートやコンセプチュアルアートをいち早く紹介し、もの派を国際的な文脈に位置づけたものとして現在も高く評価されているこの展覧会で、16本の杉の丸太を部分的に削って規則的に並べただけの「単体」シリーズの作品などを発表した。
乾さんはこの前後の高松の作品について「巧妙につくりこんだ視覚のトリック的要素が強い遠近法シリーズから、ものに最小限の加工を加えるのみの作風へと変化している」と指摘。考えられる要因として、68年にベネチア・ビエンナーレへの出品で渡欧した際に独の国際展ドクメンタ4を訪れたことを挙げた。
当時はベトナム反戦運動や学生運動が広がり、美術展の権威にも疑問が投げかけられる世相のただ中。批評家の針生一郎らとドクメンタ4を訪れた高松は、美術館の一室に金属の机や電気バッテリーなどを置き展示準備中のような空間をつくった独ヨーゼフ・ボイスの作品に「仰天した」などと書き残している。乾さんは「高松が残したメモなどで、ものの加工を最小限にしようとする意思がみられるようになるのは、帰国以降の傾向。ボイスの影響に触れてはいないが、69年以降の作風は示唆を受けていた可能性はある」との見方を示した。
そのうえで、70年万博への出品作はこの作風の変化以前のものだと指摘。大きな予算を得られる一方、契約から制作・準備が長期にわたる万博特有の事情で出品作の基本的な構想は渡欧前に固まっており、作風の変化が反映されなかったという経緯を解説した。
トークでは、加藤瑞穂・大阪大総合学術博物館招へい准教授が、具体の万博への参加について「美術ショーを求められた『具体美術まつり』に見られるように、あらかじめ文脈が決まっていた」と指摘した。また、具体の最年少メンバーで万博にも参加した今井祝雄(のりお)さん(46年生まれ)も登壇。今井さんは出品予定作を取り下げて巨大な石に白いペンキを掛けた「3t(トン)石」に差し替えたほか、具体メンバーらと共同出品した作品「ガーデン・オン・ガーデン」でも生乾きのモルタルを石でえぐった軌跡を見せるなどした。「万博の会場はどこもかしこもツルツルピカピカで、観客にこびているように感じた。直感的に、自分らのやってきた表現とは違う環境だと、抵抗するような意識もあった」と振り返っていた。
2023年4月10日 毎日新聞・東京夕刊 掲載