烏丸光広(からすまるみつひろ)(1579~1638年)は安土桃山から江戸時代初期にかけて活躍した公卿(くぎょう)である。歌道や茶の湯、古筆の鑑定など多芸多才で知られ、当時を代表する宮廷文化人であった。ことに、書は数多くの遺墨があり、近衞信尹(のぶただ)・本阿弥光悦・松花堂昭乗と並称される。この三人は〝寛永の三筆〟と称されてきたが、信尹は寛永時代にはすでに物故している。つまり、名数の称呼としてはふさわしくない。ただ、この3人が当代を代表する能書であることは衆目の一致するところなので、私は〝近世初期の三筆〟と呼んでいる。更に光広を加えた〝近世初期の四筆〟とも言えるであろう。
光広は、若いころは伝統的に公卿が学ぶ持明院流の書を学んだ。歌道の学習が進むにつれて藤原定家への憧れから定家流の書も学び、その後には光悦の書にも深く心を寄せ、光悦流に心酔した時期があった。更に壮年期以降に自らの光広流ともいえる書風を確立したのが本作である。
一方、型破りな人物であったようだ。慶長14(1609)年の宮廷女房たちと当代一の美男子と称された猪熊教利ら若い公卿らによる〝猪熊事件〟と呼ばれるスキャンダルにも巻き込まれている。流罪となった公卿がいた一方、光広の咎(とが)は蟄居(ちっきょ)に留まり、後に赦(ゆる)されて還任した。また、ある時は、光広の屋敷の屋根に草が伸び放題であったのを見かねた後水尾天皇からの御下賜金を島原(京都の遊郭)での酒色に替えたという、驚くようなエピソードも伝わる。こうした豪放磊落(らいらく)な気質も持つ光広であったが、意外にも後水尾天皇の宮廷と徳川家康の江戸幕府との交渉役に命じられた。江戸や駿府、あるいは日光への下向は11度にわたった。この往来の度に霊峰の雄姿を目にして和歌を詠じており、実際に自らの家集である『黄葉和歌集』にも多くが所収される。この画賛の和歌は見られないが、光広の自詠を補う和歌としても貴重である。
ラフなタッチで富士山の左右の稜線(りょうせん)を裾野まで描いている。手前にたなびく雲か霞(かすみ)を薄い墨で描くことで、富士の雄大さと遠近感を見せている。上句の「富士の根の/雲も霞も/たち消て」を擦(かす)れ交じりの筆致で描き、下句「白きを後の/今朝の/空哉」と「光広」の署名はやや薄い墨で揮毫(きごう)する。おそらく、硯(すずり)の墨池にあった淡墨で書いたのであろう。絵と賛のバランスが素晴らしく、わずかな線だけの絵は、富士の姿と消えゆく雲や霞の様子を見事に表現する。味わい深い左の稜線に続く絵に「哉」の一部が掛かっており、下絵が乾かぬうちの揮毫であることも分かる。墨付きと余白の構成に心を配りながら、筆の遅速を用いた多彩な線質である。必ずしも正確な文字の崩しではなく、「空」などは読みづらい。そんなささいなことよりも全体の構成に重きを置いている。学んだ定家や光悦の造形が見え隠れするのも、味わいを深くしているようだ。和歌・書画一体の遺墨で、光広の多才ぶりが偲(しの)ばれる。
2026年9月21日 毎日新聞・東京朝刊 掲載