三条西実隆(1455~1537年)は室町時代に活躍した公卿(くぎょう)で、ことに和歌や連歌に優れ、和漢の学や有職故実(ゆうそくこじつ)にも通じていた。当代屈指の学者、文化人として知られる。実隆の日記である『実隆公記』にも、『伊勢物語』や『古今和歌集』の書写や講釈が頻繁に行われたことが記され、古典の啓蒙(けいもう)に果たした役割は特筆される。『源氏物語』も「源氏講釈」に加えて、その書写や校合、新写の『源氏物語』の銘文執筆の記録などが散見しており、実隆が源氏研究の大家として活躍していたことがうかがえる。
また、その能書ぶりもよく知られ、その書は公卿階級から武将にも広がり、三条流、あるいは彼の院号から逍遥院流と呼ばれ、多くの追随者があった。また、『実隆公記』には千利休の師で茶の湯で知られる武野紹鷗、連歌師の牡丹花肖柏などの名前が見え、その広い交友が知られる。ことに、連歌師の飯尾宗祇から「古今伝授」を受けるほか、宗祇の頻繁な地方行脚に実隆の書を持参したことが記録されており、能書実隆の令名が地方にまで広く伝わった。
さて、この『源氏物語』の写本は、「桐壺」の巻末に「此物語五十四帖(じょう)以青表/紙証本令書写校合。銘是/当代宸翰(しんかん)也。殊可謂珍奇/可秘蔵々々/権大納言藤実隆/(実隆花押)」、「夢浮橋」巻末にも「此物語以青表紙/証本終全部書/功者也/亜槐(あかい)下拾遺小臣(実隆花押)」と実隆の自署の奥書が加えられ、彼の花押が据えられている。ここで「権大納言」とあるので、実隆がその任に就いていた延徳元(1489)年から永正3(1506)年までの間に成立したとみられる。「亜槐」は大臣を指す「槐」に次ぐ高官を指し、大納言、権大納言を指す唐名であり、その下にある「下」は相手への敬意を示す言葉で、高貴な人に献上するために謙譲する表現である。本写本は全54帖がそろっている写本で、他本には奥書はない。実隆ほか複数の手による寄り合い書きで、奥書をしたためた実隆が中心的な役割を果たしたものと考えられる。この時代の『源氏物語』研究は、実隆が中心となっており、この「青表紙証本」は三条西家の証本を用いたものと考えられる。
ところで、執筆年代を明らかにできないかと、彼の権大納言の時代に限定して日本漢文の『実隆公記』6冊を通覧した。結果、『源氏物語』の講釈、書写や校合、銘文の揮毫(きごう)などの記事は散見するが、日記の欠失部分もあり、該当の記録は残念ながら探りえることはできなかった。とはいえ、戦乱の室町時代において終始、京において宮廷貴族として生活し、文学の研究、書の普及につとめた姿を再確認して、室町時代屈指の学者といわれるゆえんが理解できた。ところで、奥書にある「銘是当代宸翰」は、該当の権大納言時代では後土御門天皇(1442~1500年)と後柏原天皇(1464~1526年)となるが、この時代の天皇の書は近似しており判断が難しい。その銘、すなわち題箋の文字からは、後柏原天皇の筆跡が有力であろう。

2026年5月18日 毎日新聞・東京朝刊 掲載