この手紙は鎌倉時代前期に活躍した歌人として著名な藤原為家(1198~1275年)の自筆書状である。為家は、歌人として著名で『新古今和歌集』の撰者(せんじゃ)の藤原定家の三男。祖父の俊成が『千載和歌集』の撰者という家系に連なる。当然、歌人としての活躍が期待されるところであるが、若いころは熱中した蹴鞠(けまり)で評価された、という。父の定家から歌道に身が入っていないと嘆かれた時期にあたるが、次第に歌道にも熱心に取り組んでいった。その後、後嵯峨院歌壇の歌人として活躍し、『続後撰和歌集』の撰者となった。俊成、定家、為家と3代続けての勅撰集の撰者で、歌壇の指導的立場を守り、歌道の家としての御子左家(みこひだりけ)を確立したことで高く評価される。養父にあたる西園寺公経が鎌倉方と親しく、朝廷で重きをなしたこともあり、為家は嘉禄2(1226)年に参議となり、その後も順調に昇進して、父の極官をしのぐ権大納言にまで昇進した。
さて本文を見てみよう。祖父の俊成、父の定家のような奇癖のある書風とは異なり、この時代に盛行した藤原忠通の法性寺流の影響を受けた力強い書風である。「五首御詠拝領候了/早速以外候。奥四首/殊勝候。葛木御歌/故二条宰相/あをやぎのかつら木山のながき/ひに/よくや詠て候しと覚候。/以此旨可被申給候。恐惶謹言/為家」と読める。その紙背には、墨書痕が見られる。紙が貴重な時代にあっては、手紙など手元にある反故(ほご)となった紙を集めて、ほかに転用するのが通例であった。父の定家の日記である「明月記」も、そうした使用済みの紙を集めての執筆であった。
また、平安中期に編纂(へんさん)された律令の施行細則をまとめた「延喜式」は全50巻からなることから、数多くの紙が集められての転写本が残されている。これらの紙背には貴重な手紙、例えば「高野切(こうやぎれ)第2種」と同筆の源兼行の書状がある。これによって、この著名な古筆切の筆者が明らかとなった。この為家の紙背文書もその類いで、いま明確に読み解くことが難しいが、冒頭の「五首」の右側は「十一日」と辛うじて読める。ただ、墨付きの残り具合がはっきりしないので、日記であるとの断定はできない。いずれにしても、まずはこの手紙があり、その後に紙背に何かが転写されたのであるが、伝来の途中においてこの為家の書状に価値を認めて、再度、裏返して表具されて、現在のような掛幅(かけふく)となったものである。
この書状は、本文にある「あをやぎのかつら木山」の和歌は故二条宰相の詠歌と思われ、この手紙の中心をなすことから「葛城山消息」と呼ばれて伝来している。さまざま検索すると、定家の二見浦百首に「青柳のかづら木山のはなざかり雲に錦をたちぞかさぬる」という似た詠歌にたどり着く。しかし、残念ながら出典および作者を明らかにすることができていない。その後、御子左家は、二条、京極、冷泉と分かれ、それぞれ和歌をもって宮廷に仕えた。為家の嫡流の二条家は蹴鞠の家としても重きをなした。
2026年4月20日 毎日新聞・東京朝刊 掲載