
この屛風は、智仁親王(1579~1629年)が右隻に『千載和歌集』から選び出した6首を、左隻には『新古今和歌集』よりの6首を揮毫して6曲1双の屛風に仕立てたものである。13年ほど前に、女房奉書のような散らし書きで書写した左隻を紹介したが、今回は右隻である。
ご覧になると、お分かりいただけるが、大字の屛風作品である。1扇目は、「藍〓鳥啼鶴方雄詠連頗/只晨明之月曽残礼留」である。一見すると漢詩のようであるが、〝藍〓鳥〟は『大漢和辞典』によれば宋時代の辞書である『広韻』に「今云郭公也」とある。つまり、ホトトギスのことである。これは万葉仮名を駆使したもので『千載和歌集』巻3・夏に所収の後徳大寺左大臣(藤原実定)の和歌「ほととぎす鳴きつる方を眺むれば ただ晨明の月ぞ残れる」(歌番号161)を2行に書写したものである。
次の和歌は同じく巻3所収の藤原公衡の「をりしもあれ はなたちばなの/かをるかな むかしを見つる/夢のまくらに」(歌番号175)で、著名な和歌である。3首目は、巻12・恋2に所収する源師光の「恋しとも
又つらしとも おもひやる/心いつれか さきにたつらん」(歌番号735)、そして、4首目は巻14・恋4の刑部卿範兼の和歌「月まつと 人にはいひて なかむ/れは なくさめかたき/ゆふくれのそら」(歌番号873)と続く。と、ここまで和歌を追いかけると文化活動に熱心であった智仁親王の古典を学んだ美しい仮名の造形と流麗な線質による能書ぶりがわかるであろう。加えて、万葉仮名ではあるが、漢字と仮名を見事に調和させる技量の素晴らしさ、さらには行頭の高さの変化による工夫、行末が大きく弧を描くような処理による余白の作り方、加えても左隻の散らしの変化との対比にも、感心せざるを得ない。現在の大字仮名の書法とは異なるが、すでにこの時期に大字を展開している先駆性を感じ取ってほしい。
智仁親王は正親町天皇の孫にあたり、後陽成天皇(1571~1617年)の弟である。織田信長の没後、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げようとしている時代に少年期を送った。秀吉の猶子となっていたが、天正17(1589)年に秀吉と淀君の間に実子の鶴松が誕生したために養子縁組を解かれることになった。翌年、秀吉の奏請によって創設された八条宮家の初代となった。実兄の後陽成天皇は好学の天皇として知られるが、智仁親王も中院通勝や道澄准后からも歌道を学ぶほか、細川幽斎から古今伝授を受けている。また、室町時代に隆盛した連歌を里村紹巴から学んでサロン的な活躍でも知られる。古典の収集や書写にも努め、学芸に造詣が深かった。後陽成天皇の宮廷の古典復興活動を、弟の智仁親王のもとで連歌や和歌などの文化享受層がその一端を支えたと考えられる。また、彼は、八条宮家(桂宮家)の回遊式の庭園として名高い別荘(桂離宮)を造営したことでも知られる。
2025年6月16日 毎日新聞・東京朝刊 掲載