
書き出しの「文政丁亥、惟我生焉、今歳癸卯、七十七歳」は、筆者の中林梧竹(1827~1913年)が文政10年(丁亥、1827年)に誕生し、執筆したこの年が明治36年(癸卯、1903年)で自身の77歳であることを示している。末尾に「自寿 梧竹」とあり、自らの喜寿を寿(ことほ)いでの自詠であった。桐鳳凰(きりほうおう)文の美しい料絹に揮毫(きごう)したものである。
梧竹は、肥前国小城藩(現在の佐賀県小城市)の出身。梧竹は号で、別号に剣書閣主人・個閑・忘言など。藩校の興譲館で学んだ後に、藩命で江戸に出て、山内香雪やその師にあたる市河米庵に師事した。帰藩後に藩の子弟に経書を講じるなど藩政に携わったが、廃藩置県によって藩を辞して長崎に移り住み、書に専念した。
明治10(1877)年に長崎にあった清国理事府の理事官であった余元眉(よげんび)から中国の法帖(ほうじょう)を入手したことにより、中国書法、とりわけ六朝時代の書法の研究を始めた。明治15年に任を終えて中国に帰る余元眉とともに清国に渡り、余元眉の師である金石学者で能書の潘存(はんそん)の下で学書に没頭した。明治17年の帰国時に漢や六朝時代の多数の拓本を持ち帰った。各書体を能(よ)くし、気宇雄大な書風を好んだ。明治24年には、王羲之の「十七帖」の臨書を明治天皇に献上することを許されるなど高い評価を受け、日下部鳴鶴や巌谷一六とともに「明治の三筆」と呼ばれるに至った。
自らの書論などをまとめるべく『梧竹堂書話』を執筆したが刊行前に逝去し、その原稿は行方不明となった。その後、一部の原稿が発見されて出版された。それによれば「筆意を漢魏に取り、筆法を隋唐に取り、これに帯ばしむるに晋人の品致を以てし、これに加うるに日本武士の気象を以てす。これ吾が家の書則なり」と書作にあたる姿勢を明らかにしている。
梧竹は、80歳代までは羊毫で穂先の長い長鋒(ちょうほう)の筆を用いて揮毫し、以降は短鋒の筆で新境地を展開した。この作品は長鋒を駆使していた時代の作品である。粘りのある力強い線質が特徴である。加えて、造形にも強い関心を抱いており、その個性的な書風は特筆されてよい。個性豊かで闊達(かったつ)自在の書法が特徴である。また、1行目の「卯」、3行目の「楼」、4行目の末尾の「仏」、5行目の「月」、そして署名の「竹」など縦長に強調しての揮毫である。「卯」とか「月」などは通常はこれほど縦長に書くことは少ない文字であるが、工夫の跡がうかがわれる。
また、料絹いっぱいに文字が展開しているが、通常であれば文字が込み入ってうるさく感じるところである。しかし、それほどの煩雑さを感じることがない。文字の字形が向勢であること、線の太細を巧みに使っていること、さらに、隣り合う行の隙間(すきま)の空間に墨付きを展開している。臨機応変の筆法ができる能書であることを証明する作品でもある。
皇居三の丸尚蔵館の展示「百花ひらく」で、5月6日まで展示中。
2025年4月22日 毎日新聞・東京朝刊 掲載