
この絵巻は、都の貴族の子として生まれた小栗判官が主人公である。彼と関東地方の豪族の娘・照手の恋愛物語である。筋立てが変化に富み、場面の展開が早く、登場人物の生きざまが面白い。絵の作者は岩佐又兵衛(1578~1650年)とその工房である。全26巻、330㍍に及ぶ長大な絵巻で、その躍動感溢(あふ)れる画風は近世初期の絵画の魅力を遺憾なく発揮している。
図版の段落は巻8上の部分で、無断で婿入りした小栗を怒りのあまり、招宴にて殺害しようとする場面である。松と橘(たちばな)が生えた蓬萊(ほうらい)山を見立てた岩山を背負った巨大な亀の作り物が置かれている。中国では蓬萊山は海のはるか彼方(かなた)にあり、財宝に覆われ不老不死の薬があると伝えられている。日本では、蓬萊山は富士山の異称でもあり、日本の安寧と繁栄の願いが込められている。それを願って、皇居三の丸尚蔵館ではお正月展示として、「瑞祥(ずいしょう)のかたち」を企画しており、この作品も3月2日まで展示されている。図版の部分は前半の2月2日まで展示。
さて、その詞書(ことばがき)であるが、一見して近衞信尹(のぶただ)を祖とする三藐院(さんみゃくいん)流の書である。切れ味鋭い「や」や結びが小さい「は」、大きく左にせり出した「ふ」などが特徴である。何より流麗な筆致で、かつ力強い書風は見事である。
ご覧いただいているように、絵から連続する霞引(かすみび)きの美しい料紙に揮毫(きごう)されている。相当の力量がないと臆して執筆は困難であろう。書をはじめとして、和漢の学や茶の湯を能(よ)くした信尹であるが、これだけ長大な絵巻の詞書を揮毫したとは想定しづらい。では、その養嗣子の信尋(のぶひろ)(後陽成天皇の皇子)であろうか。その遺墨と仔細(しさい)に比較すると両者ではなさそうである。となると、当時の三藐院流の名を連ねる和久半左エ門、禅昌などの名前が浮かぶが、いま決定するに至らないので、信尹の書を追随して生まれた三藐院流の能書の筆として紹介する。
当時、この三藐院流と、本阿弥光悦を祖とする光悦流、さらに石清水八幡宮の社僧・松花堂昭乗を祖とする松花堂流に人気があり、多くの人がこれを模倣して流行した。従来の書道史では、この3人を〝寛永の三筆〟と読んで尊重した、と説くことが通例であった。ただ、信尹は寛永期に生存していないので、私は最近では「近世初期の三筆」と呼んでいる。ともあれ、これだけの絵巻の詞書が三藐院流で執筆されていることに注目してほしい。
さて、その詞書には「をぐりどのはさて、それがしはけふは/きのみやしんこうさかだんしゆと申てに/さかづきのきようだいはさらになし」とある。この「きのみやしんこう云々」は来宮信仰で「酒断酒」と続く。来宮神社は禁酒の神としても信仰を得ていたようである。正月で酒を過ごした人も多いと思い、健康のため、たまにはお休みするのもよかろうと、この段落を選んでみた。明治28(1895)年、岡山藩の家老を務めた池田長準(ながとし)より、広島に滞在された明治天皇に献上されたものである。
2025年1月20日 毎日新聞・東京朝刊 掲載