これは、明治43(1910)年に東京・本郷の前田邸行幸の御礼として前田利為(としなり)より献上された。これを収蔵する箱には、前田家5代の綱紀の箱書きがあり、祖父の利常の蔵書で、当時から巻の欠失があった、という。また付属の古筆鑑定を生業にする古筆家2代了栄の極札(きわめふだ)には「源俊頼朝臣(あそん) 萬葉集巻第二」と鑑定しているが、今日の研究でこの筆者は藤原行成を祖とする世尊寺家の第5代定信(生存確認期間、1088~1154年)と明らかにされた。図版で見られるように太い線や細い線を巧みに使い分け、ダイナミックなタッチで書き進めているのが特徴であり、かなりの早書きである。それもそのはずで、たった一人で一切経の5048巻の全てを書写するという、大変な労力と気力と信仰心を要する偉業を成し遂げた人物である。一切経の6000万文字を23年間で完写するには、1日7000字あまりを書写するというスピードが必要。それも宮中の儀式や業務をこなしながらであった。
彼は写経だけではなく、「元永本古今和歌集」などを書写した父の定実とともに、「西本願寺本三十六人家集」の「貫之集下」(断簡は石山切と呼ばれる)、「中務集」「順集」(断簡は糟色紙(かすしきし)・岡寺切と呼ばれる)の分担書写にも加わって、身の回りにおいて鑑賞する調度手本の制作にも加わっていた。こうした古筆においても、身に付いた速筆での書写になるのは当然であろう。
左ページの終わりの1首(あつま人のゝさきのはこのかのをにも/いもかこゝろにのりにけるかも)は『万葉集』巻第2を書写した部分である。ことに、下句の「いもかこゝろに」の「い」と「も」を大胆に連綿している。「こゝろ」の連綿は大胆すぎて「ころ」にも読める。かように、全体の流れるリズムを大切にしているのである。また、右ページの6行目の万葉仮名の部分「梓弓都良絃取波氣引人者 後心乎知人曽引」を見てほしい。中ほどに「引」という字が見えるが、これだけ見ると旁(つくり)の部分が太すぎてバランスを欠く。ただ、見開きの全体の墨付きや筆の流れでは、絶妙な墨量として見事な調和を展開している。つまり、キッチリとした楷書を積み上げるのではなく、行書から草書を駆使して雄渾(ゆうこん)な筆遣いで、より全体の変化の妙を重視しているのである。
図版で確認できるように、胡粉(ごふん)(貝殻を細かく潰したもの)を塗抹した上に雲母(きら)(花崗岩(かこうがん)に含まれるウンモ)で瓜(うり)の形文様を刷りだした清楚(せいそ)で華麗な料紙を用いている。ほかには、唐草や花など種々の文様が見られる。
これは、『万葉集』巻第2の大半にあたる58枚、それに巻第4の97首分を20枚の料紙に書写した粘葉装(でっちょうそう)の冊子本として1冊に仕立てられていたが、令和の修理の際に、保存や活用を考慮して2冊に分冊された。金沢の前田家に伝来したことから、この名前で呼ばれている。
この作品は皇居三の丸尚蔵館の「公家の書」において、22日まで展示(前期が巻第2で、後期が巻第4)される。
2024年12月16日 毎日新聞・東京朝刊 掲載