
現在、東京・上野公園内の上野の森美術館において、「石川九楊大全」展が開かれている。書家・石川九楊(1945年生まれ)の作品の展覧会で、出品点数は前後期合わせてほぼ300点、見逃すことのできない重要な企画展である。
内容は、「遠くまで行くんだ」というキャッチコピーのもとに集められた「古典篇(へん)」と、「言葉は雨のように降りそそいだ」というコピーをともなう「状況篇」との前後期2部構成からなる。
文字はもとより言葉を写すものである。言葉がなければ文字は生まれない。文字が書かれるためには、それに先立って、まず言葉が存在しなければならない。しかし、言葉はどのようにして生まれてくるのか。文字として存在する以前に、まず言葉がなければならない。
それは、辞書や50音図のようにはっきりとしたかたちを具(そな)えたものである以前に、多くの人びとが共同作業を行うときに、文字通り、息を合わせるためのかけ声のようなものである。
石川九楊の作品は、発生においても成果においても、それとは全く違う。かけ声から文字が生まれてくるのではなく、文字が発生すると同時に言葉が登場し、それによって言葉が定着する。言葉から文字ではなく、言葉と文字を同時に生み出さなければならない状況だったと言うべきであろうか。
もともとこの日本においては、文字というものは存在しなかった。文字を必要とする行政書類や手紙その他すべては、中国からもたらされた文字(漢字)によっていとなまれ、処理されてきた。そのような歴史を背景において考えてみるならば、石川九楊が書家として言葉=文字と格闘しなければならなかった事情が浮き彫りにされてくる。
今回の石川九楊展は、「古典篇」「状況篇」も含めて、この言葉の達人、文字を生成する書家の格闘の軌跡にほかならない。
展示作品は、いずれも力のこもった見ごたえのあるものばかりだが、「古典篇」のなかの『徒然草』や『歎異抄』など、いずれもじっくり眺めたいものばかりで、なかでも圧巻は『源氏物語』全帖(じょう)に「雲隠」を加え、それぞれの帖を1点1点にあてた全55点のシリーズであろう。会場全体が、あたかもこの平安時代の長編小説の舞台に変貌してしまったかのような様相を見せる。まさしく「書」の力が存分に発揮される領域である。何度でも繰り返し眺めたい充実した迫力の展覧会と言ってよいであろう。
◇
古典篇は既に終了。後期の状況篇では、聖書の言葉を題材にした初期の代表作「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」と、その続編の超大作「エロイエロイラマサバクタニ又は死篇」、戦争や新型コロナウイルスなど現代社会と相対した最新の自作詩など、「言葉の表現」としての書を展示している。28日まで。
2024年7月11日 毎日新聞・東京夕刊 掲載