湿度が鬱陶しい季節だが、湿度が高くなければ利用できない工芸素材が漆である。漆は天然の塗料で、接着剤の性質も持ち、空気中の水分と反応して硬化する。日本では縄文時代の土器や木製品に塗られるなど、いにしえより使用されてきた。天平時代の国宝・阿修羅像は、型に漆と麻布を塗り重ねて作る乾漆技法の代表作であり、平安時代以降は蒔絵や螺鈿の箱などの装飾にも積極的に活用されてきた。
仏像の表層や箱の加飾などの立体物に使用されてきた漆は、近代以降、絵画のような額装パネルや屛風などの平面表現としても展開していく。東京美術学校で漆工を学び、日展で活躍した山崎覚太郎(1899~1984年)は、先駆者の一人であった。「漆絵」とも呼ばれる絵画的漆芸発達の背景には、従来の黒や朱だけでなく、白っぽい漆のほかさまざまな色漆が作れるようになったこともある。多彩な漆を使用することで、華やかな漆絵は具象から抽象まで格段に表現が広がっていった。
しかし、漆絵にも独自の方向性を探究してきた作家がおり、その代表的な作家が、東京芸術大学大学院で漆芸を学び、日展や個展で精力的に発表してきた並木恒延(49年生まれ)である。並木のパネル作品の多くは、いわゆる色漆を絵の具のごとく活用し、その艶やかな色彩で見せるのではなく、また色漆の世界の一部に螺鈿などの漆芸素材を併用するにとどまらない。並木は漆の「色」で表現するよりもむしろ黒漆に卵殻や蒔絵、螺鈿など、漆芸の伝統技法を駆使して、風景や人物を写実的に、また象徴的に表現してきたのである。
例えば、卵殻を用いた作品では、鶉の卵の殻の大中小異なるサイズの粒を用意して立体感や陰影を表現する。卵殻の白さにも微かな青みや赤みがあるが、それも考慮して山水などを「描き」出す。蒔絵においても、金粉の粗密などを駆使して街並みの空気感までも表現する。並木の作品では、部分的に漆芸素材を取り入れるというよりも、卵殻のみの白黒の世界、蒔絵のみの金と黒の世界といった、ほぼワントーンで纏めた作品を含め、卵殻・蒔絵・螺鈿という漆芸の伝統技法で「画面」を成立させているのである。
その際、作家は「漆黒の力」を最大限活用している。最初に塗り込める、地の漆の黒い背景が、例えば何気ない街並みの表現に、金との対比やグラデーションで深い奥行きを生み出す。あるいは卵殻の白い粒で築いた壮大な自然の山々や滝の流れなどが、漆黒と対比されて神聖な空気を醸し、特別な風景になる。作品は皆、並木のスケッチに基づく、極めて具体的、写実的な描写でありながら、観る者は作品を前に、自ずと自身の記憶を辿り、自分が見た風景と重ねてしまうような一種の普遍性を表出している。並木の作品世界は、漆の本質を生かして時空を超える芸術へと向かうのである。
この8月12日から24日まで、東京都羽村市のプリモホールゆとろぎで「並木恒延・五十嵐誠・新井達矢 3人展―漆・木・面―」という、地元羽村市の作家たちの展覧会が開催される。木工や能面と共に、並木の絵画的漆芸の世界に浸るよい機会ともなるであろう。
2025年7月15日 毎日新聞・東京朝刊 掲載