ウクライナ出身、フランス在住のIELIZAVETA PORTNOVAさんによる「Kiln」=提供写真

【KOGEI!】
やきもの用語と地域・時代

文:外舘和子(とだて・かずこ=多摩美術大学教授)

工芸

 3年に1度の「国際陶磁器フェスティバル美濃」がセラミックパークMINOなどで開催中である(17日まで)。そのメインイベントは「国際陶磁器展美濃」。今回はウクライナ出身の作家がグランプリを受賞した。苦悩する動物の姿を想(おも)わせるその受賞作は、我々に今日的な課題をつきつける。

 こうした社会的テーマを内包する造形性の強い作品から、実用の食器までの全てのやきものを、岐阜県の窯業地美濃では「陶磁器」と呼ぶことに抵抗感がない。国際陶磁器展美濃が「陶芸部門」と「陶磁器デザイン部門」で構成されているように、「陶磁器」が陶芸と陶磁器デザインを包括する。この地域では「陶磁器」がやきものの総称なのである。それは、素材的には陶器も磁器も含み、実用から表現までを指す。美濃は、歴史的にも、桃山時代の茶陶で知られるほか、近代以降は大量生産の陶磁器製品の圧倒的シェアを誇る地域で、戦後拡張する個人作家の多様な表現までも含めて「陶磁器」が総称として市民権を得たのであろう。

 一方、関東ではやきものの総称に「器」の語が付くことに違和感を覚える人々もいる。ウクライナの受賞作は陶磁器よりも陶芸作品と呼ぶ方が自然であり、そもそも展覧会名称を国際陶芸展美濃とすべきではないかという意見もある。「陶芸」は陶磁史上比較的新しい、昭和以降の言葉で、様々(さまざま)な表現に取り組む陶芸の個人作家の増加に伴い、普及していった語である。私自身も現代や作家を意識する際は「陶芸」をしばしば使用し、古陶磁ほかあらゆるタイプの土で成形して焼いたものを総称したい時は「やきもの」を使用する事が多い。

 しかしまた、京都を中心に関西では、「陶芸」よりも「陶器」の方がやきものの総称として通りがよいようだ。京都のあるベテランのオブジェ陶芸家は、「何をされていますか」という質問に「陶器をしています」と答え、「陶芸」という言葉に自分はなじめないと語る。京都ではオブジェを含め「陶器」がやきものの総称として有力なのである。背景には、京都が野々村仁清や尾形乾山はじめ磁器よりも陶器(土もの)で知られる地域であり、京都の先駆的陶芸家、富本憲吉が、磁器も陶器も手掛けながら、総称として「陶器」を活字にも残したことが挙げられる。

 地域差が顕著なやきもの用語は、時代的な要素も影響する。江戸時代の戯作者(げさくしゃ)、十返舎一九の『忠臣瀬戸物藏(せとものぐら)』(1802年)では「瀬戸物」がやきものの総称だ。実際、戦前生まれの世代なら、瀬戸で作られたものでなくとも、やきものを「せともの」と呼ぶことが珍しくなかった。それは、かつて瀬戸がやきものの生産に絶大な力があったという歴史を物語っている。

 様々な言葉が生まれるのは、その領域に歴史があり、充実していることの証(あかし)であり、地域性、産地性が息づいていることを示す。1986年に創設された「国際陶磁器展美濃」のグランプリ受賞作の多くが、2002年に開館した「岐阜県現代陶芸美術館」で収蔵されていることも、矛盾や曖昧さというより、やきものにおける地域性・歴史性の豊かさであると捉えたい。

2024年11月12日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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