政治的に困難な歩みを迫られるなか、固有の文化を築いてきた沖縄。国際的に活躍する沖縄出身の美術家が現れる一方、体系的に紹介される機会はまだ少ない。これまでどのような美術活動が行われ、どのような展望が開けているのか。長く表現の現場を見続け、『沖縄美術論 境界の表現 1872-2022』(沖縄タイムス社)の著書がある、元沖縄県立博物館・美術館副館長の翁長直樹さん(73)に聞いた。
◇米軍基地の下、反戦の思い普遍化
--まずは沖縄美術の特徴を教えてください。
琉球王国が琉球藩となって以降のこの150年間、3度世替わりしたと言われています。つまり、琉球王国、日本、米国、また日本へと代わり、その間、中国、日本、米国に政治・経済のみならず、文化的にも大きく影響されました。
紅型(びんがた)や織物、焼き物のような伝統工芸には独特な色遣いや造形が伝承されていますが、戦後美術で言うと、特に日本と異なる造形があるわけではありません。しかし美術家たちは世替わりや社会の変化に合わせて、あるいはあらがって、根っことなるモチーフを探しながら制作してきました。俯瞰(ふかん)してみれば、やはり独特だと言えるでしょう。
--戦後の出発点とも言える時期に、米軍は芸術家保護政策を行っていました。
米軍は美術家や沖縄芝居の役者を公務員として採用し、戦後間もない時期にもかかわらず、大規模な展覧会を開催、美術家が絵を描いて生活できるような環境も整いました。これは、間接的に米軍の援助を受けた画家たちの美術村「ニシムイ」につながります。保護政策は芸術の興隆をもたらしましたが、一方で、米軍に対し、批判しづらい環境を生むことにもなりました。そのなかで画家たちは与えられた仕事に異を唱えるなど、主体性も発揮していたのです。
--創作上、直接的に沖縄戦を表現した作品も近年までほとんどないのですね。
皮肉なことに、米軍の保護育成政策が功を奏しました。取り締まりが厳しかった文学とは対照的です。鎮魂の意味を込め、抽象的に表現した作家はいましたが、基本的に復帰後も同様でした。「等しく悲惨な体験をしている沖縄で、戦争画を描いて誰に向けて発表するのか」との指摘がありますが、それにはうなずきました。直接体験したり、同世代だったりする美術家にとっては、描くことは苦痛でもあったでしょう。
画家たちは戦後早くから難民キャンプや焦土と化した風景を描いていましたが、いわゆる反基地、反戦のメッセージ性の強い作品は描かなかったし、描けませんでした。1960年代をリードした安谷屋(あだにや)正義(21~67年)は、米軍基地の金網前でスケッチブックを官憲に没収されたことがあると、写真家の山田實(みのる)氏から聞いたことがあります。反戦のメッセージをオブジェとして盛り込んだのは、戦闘機の羽根を用いた城間喜宏の「亜熱帯の島から」(68年)が最初だと思われます。
--著書の表紙絵にも取り上げた、安谷屋正義についてもう少し教えてください。
先行世代の沖縄的なローカリズムを脱し、新しい沖縄の目に見える現実をモチーフにした画家です。半抽象的な「望郷」(65年)は、米軍基地とおぼしき背景に1人の歩哨を立たせて描きました。65年は、反米闘争が国際的な反戦運動と連携する動きを見せ、ベトナム戦争で北爆が始まり、嘉手納基地からB52爆撃機が飛び立って人々に衝撃を与えた年でもあります。そのなかで安谷屋はぽつりと立つ兵士の孤独を描いたのです。
個人的な話になりますが、親は基地近くで飲み屋をやっていて、米兵がよく来ていました。若い兵士が戦地にたつ前の日、泣いていたのを今でも覚えています。沖展で「望郷」を見たのは中学生のとき。この歩哨に、基地の金網を越えて感情移入しました。当時、センチメンタリズムだと批判する人もいましたが、反戦の気持ちを普遍的なものにしていくという意味では、時代を超えた作家でした。
--沖縄美術の展望をお聞かせください。
戦後の美術は一つ壁を越えたと言えます。照屋勇賢、山城知佳子ら美術家や、石川真生、比嘉豊光ら写真家が国内をはじめ、アジアや欧米で知られ始めています。今後は米国や中南米をはじめとする沖縄系の作家ともネットワークを構築し、展開していくでしょう。東アジア、特に台湾や韓国との交流も期待されます。また、琉球絵画を探求し、継承したいという若手・中堅の作家が現れており、動向に注目しています。
◆記者のひとこと
前出の山城さん(76年生まれ)と照屋さん(73年生まれ)や、美術家のミヤギフトシさん(81年生まれ)の活躍に触れるたび、その背景にある沖縄の美術の歴史を知りたいと思っていた。『沖縄美術論』は、戦前から現代までの主要な流れと社会的状況を記した一冊だ。長年現場を見てきた著者らしく、具体的な事例の積み重ねを基に約40年間の論考がまとめられている。翁長さんいわく、なかでも「文化的目覚め」があった日本復帰後の70年代後半と、2000年以降が面白いという。これからも沖縄から生まれる美術に注目したい。
■人物略歴
◇翁長直樹(おなが・なおき)さん
1951年、沖縄県うるま市(旧具志川市)生まれ。琉球大教育学部美術工芸科卒。中学、高校教諭を経て95年に県立美術館設立のために県文化振興課へ。2007年に県立博物館・美術館が那覇市に開館後、09年に副館長就任。11年退職。その後も、展覧会の企画や評論活動を続けている。
2024年8月11日 毎日新聞・東京朝刊 掲載