東京都渋谷区で、手塚耕一郎撮影

 東京オリンピックが終わって2カ月。日本は史上最多となる58のメダルを獲得し、国民を熱くさせたが、17日間の祭典は東京という都市をスクラップ(解体)とビルド(建設)の興奮にも駆り立てた。「建築界のノーベル賞」といわれるプリツカー建築賞を受けた世界的建築家、伊東豊雄さん(80)に、この五輪はどう映ったか。話を聞いた。

 伊東さんは、故ザハ・ハディドさんの国立競技場デザイン案が白紙撤回された、仕切り直しのコンペに挑戦。同じく世界的な建築家である隈研吾さん(67)らのコンペ案と対決し、僅差で敗れた。

 伊東さんに、その国立競技場の印象を尋ねると「僕は負けたんで控えた方がいいんでしょうが……」と声を落としたが、一拍おくと、ためらいを振り払うように言い切った。「一言で言えば凡庸な競技場になりました。東京アクアティクスセンターも有明アリーナも、どれも同じような、思想の感じられない建築ばかりでした」

 踏み込んだ発言に驚いたが、ライバルへの個人攻撃から出た言葉ではなかった。「3兆円超とも試算されている開催費をかけて、何をしたかったのかな、と。コロナのせいだけでは決してないはずです。建築物を含め、レガシー(遺産)が何も残らなかった。日本の文化的貧しさを痛感した五輪でした」。日本のあり方への嘆きだった。

 その一つの例として、伊東さんは最終コンペを振り返る。「事業主体(日本スポーツ振興センター)からのヒアリングは予算と工期に終始しました。明治神宮の外苑という森にはどのような歴史があり、今後100年に向けてどういうスタジアムが建つべきか。そうした議論は全くなかった。木構造を中心にスタジアムを構想するというプランについてもほとんど問われなかった」

 当時、「ザハ案」が急きょ撤回されたため、時間も予算も限られていたのは明らかだった。しかし、そうした条件下でも、伊東さんは、必要な議論をしない日本の「風土」を厳しい目で見ていた。「制約があっても、後世に何を残すのかということをしっかり議論しなくては。それが文化的であるということでしょう」

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 1964年に東京でオリンピックが開催されたとき、伊東さんは東京大で建築を学ぶ4年生だった。丹下健三の代表作、代々木競技場(東京都渋谷区)の建設現場にも足を運んだ。「首都高が通り、東海道新幹線が開通しました。技術革新が市民へと次々に還元される、そんな実感がありました。東京はある種の興奮状態でした」。そう回顧すると、伊東さんは問いかけた。「それに比べて今回、人々に還元されたものは何かありましたか?」

 しかし、今回の五輪も同じようではなかったか。競技場の建設ラッシュの他、東京の各地では伊東さんがオフィスを構える渋谷をはじめ再開発が相次いだ。200メートル級の高層ビルも次々と完成した。しかし、建築家の目には、まるで違って見えていた。

 「今回の五輪でも高層化という形で都市の再開発は進みました。しかし『市民のため』という感じがしない。技術は経済のために使われ、経済のためにオリンピックが開かれた」。フロンティアが空中にしか残されていない大都市で、五輪を開催する社会的な意義は見いだせない、というわけだ。

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 この10年、東日本大震災、頻発する豪雨や酷暑、そして新型コロナウイルスの感染拡大という自然の猛威に直面した。「大都市から自然のなかへと、もう一度どう人間が溶け込んでいけるか。それが今考えるべき最大のテーマです」

 現代建築は高層化、匿名化する一方で、ザハさんに代表される奇抜な建築も耳目を集める。「そうした建築に求められているのはブランドです。私は、現代建築はブランドではなく、思想であり現代社会への批評だと、そういう思いなのです」

 建築が思想を表すとすれば、この東京はいったいどんな思想を表現しているのだろう。五輪後のいま、伊東さんが吐露する怒りと嘆きは、それを突きつけている。

2021年10月25日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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