(参考)レオナルド・ダビンチ「カーネーションの聖母」1475年ごろ、ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク©Bayerische Staatsgem ä ldesammlungen=提供写真

 ◇開館30周年特別企画展 18日開幕

 箱根ガラスの森美術館(神奈川県箱根町)の開館30周年特別企画展「描かれたヴェネチアン・グラス~箱根ガラスの森美術館コレクション~」を18日から、同美術館で開催する。装飾芸術の結晶ともいえるベネチアン・グラス。美の追究という共通の感情で通底する芸術の世界で、欧州の画家たちはベネチアン・グラスの存在に魅了され、自らの作品にそれを描き入れていった。ガラス器は欧州社会の精神をも映し出している。今回は、絵画に描かれながら現存しないガラス器を実際に再現制作する試みにも挑戦した。同美術館の所蔵作品約100点、複製絵画22点を展観する。

 描かれた「含意」を探る醍醐味(だいごみ)が、この展覧会の最大の魅力だ。

 レオナルド・ダビンチ(1452~1519年)の「カーネーションの聖母」。20歳を過ぎたころのダビンチがルネサンス文化全盛のイタリア・フィレンツェで制作した聖母子像だ。聖母マリアが赤いカーネーションを手にしていることからこの名称で呼ばれている。右下に描かれているのが無色透明のガラスの花瓶だ。

 ダビンチが描いた時、実際にこの花瓶は存在していなかったようだ。「自らの想像力を羽ばたかせてつくりあげた『空想上のガラス器』」(同美術館)と考えられている。大胆な曲線を持つ取っ手や上下2段に成形された本体、らせん形のリブ模様が施された細長い首など、当時の技術では実現困難な器形とデザインだ。後の時代に出る数々のガラス器の先取りともいえる形状で、「万能人」と呼ばれるダビンチの力が垣間見られるようだ。

 一方で、ガラスを無色透明にする技法は既に開発されていた。とはいえ、わずか数十年前、ほぼ同時代のことで、ベネチアのガラス職人アンジェロ・バロビエール(1400~1460年)が確立した。マンガンの調合を重ねていた職人が偶然作り出したことがきっかけだったともいわれている。水晶に似ていることから「クリスタッロ」と呼ばれ、清らかな美しさは王侯貴族の垂涎(すいぜん)の的であった。メディチ家全盛の当時のフィレンツェで、当然その存在は知られていたはずだ。ダビンチが空想した器が「無色透明」であった意味が分かる。

 ではなぜダビンチは、この聖母子像にこのガラス花器を描き加えたのだろうか。

 ルネサンス期に重なる14~15世紀のイタリアでは、ペストの大流行がたびたび起きている。フィレンツェでの惨状はボッカッチョの「デカメロン」に描かれている通りだ。カトリックの教義の下、人々は聖母マリアに救いを求めた。バロビエールの家系の子孫で、ガラス工芸史研究の第一人者でもあるローザ・バロビエール・メンタスティさんは、マリア信仰の基底にある「無原罪懐胎」をガラス花器の「無色透明」に結び付ける。「人類でただ一人『原罪』に染まらずに生まれた聖母マリアへの信仰を象徴している」(柳井康弘・同美術館学芸マネジャー)。

 同時期のフィレンツェの画家ピエロ・ディ・コジモ(1462~1521年)が1490年ごろに制作した「聖母子」。ここではマリアと幼子イエスの肖像の下に、当時のベネチアで作られたクリスタルのガラス皿が描かれている。皿にはキリストの受難を示すブドウの房が載っている。この皿と同じ技法で同時代に制作された「点彩文深皿」が今回展示されている。ぜひ見比べたい。

(参考)ピエロ・ディ・コジモ「聖母子」1490年ごろ、ストックホルム、スウェーデン王室コレクション©The Royal Court, Sweden/Photo: Lisa Raihle Rehb ä ck
「点彩文深皿」 16世紀、ベネチア=提供写真

 ◇欧州社会の精神映す

 新約聖書に記されたイエス・キリストの事績を描いた絵画にも、その時代には存在しなかったさまざまなベネチアン・グラスが描き込まれている。

 16世紀、ベネチアに近いベローナやマントバを拠点に活動したジローラモ・ボンシニョーリ(1472~1529年)は、有名なダビンチの「最後の晩餐(ばんさん)」を模写した作品を残した。イエスの手元の卓上には、本家ダビンチの作品にはないゴブレット型のワイングラスが描かれている。

 ドイツの宮廷画家ペーター・ゲルトナー(1495~1541年ごろ)の「磔刑(たっけい)」には、十字架にしがみついてイエスの死を嘆くマグダラのマリアの膝元に、ルネサンス後期ベネチアン・グラスの最高峰といわれるレースグラスの蓋(ふた)付き容器が描かれている。

 同時期のベネチア派の画家ビンチェンツォ・カテーナ(1480~1531年)が1520年ごろに描いた「エマオの晩餐」。新約聖書の「ルカによる福音書」に記された場面で、磔刑後復活したイエスと弟子たちとの食事の場面を描いた作品だ。食卓には16世紀のベネチアン・グラスが描かれている。

(参考)ビンチェンツォ・カテーナ「エマオの晩餐」1520年ごろ、フィレンツェ、ウフィツィ美術館©Gabinetto Fotografico delle Gallerie degli Uffizi=提供写真
「点彩花文坏」16世紀、ベネチア イスラム圏から伝わったエナメルの点彩。伸び上がる炎のような光の表現が特徴的だ=提供写真

 背景には何があるのだろうか。王侯貴族が自分のコレクションを誇示する意図で宮廷画家に発注したように思えるが、研究者には別の見方がある。

 根本耕太郎・同美術館学芸員は「人々の関心をカトリックの教義に引き寄せる『仕掛け』として使ったのではないか」と話す。

 マグダラのマリアはイエスに従った女性で、「磔刑」の場面ではイエスの足に注ぐための香油を詰めた瓶を持って駆けつけたとされている。その「香油瓶」が、ルネサンス期最高の装飾美術品に描き変えられた。

 カトリックの権威と分かちがたく結びついた貴族社会。そして、彼らに統治される民衆--。そこに垣間見えるのは、当時の欧州世界の構図だ。

(参考)ペーター・ゲルトナー「磔刑」1537年、ボルティモア、ウォルターズ美術館©The Walters Art Museum, Baltimore=提供写真
レースグラスの容器の拡大=提供写真
「レース・グラス蓋付きゴブレット」16世紀末~17世紀初、ベネチア 乳白色のガラスがらせん状のレース模様を構成。貴婦人のイメージをたたえる=提供写真

 ◇技巧の極みを象徴

 静物画にも目を向けよう。ガブリエーレ・サルチ(1681~1720年)。カトリック信仰と結びついた華やかな装飾で知られるバロック後期のローマで活躍した。彼の「果物、クリスタルガラスと楽器」には、この時代の二つのグラスが描かれている。

(左)ダビデ・フイン「花鳥装飾レース・グラス蓋付きゴブレット」(再現作品)2026年、ベネチア(右)(参考)ガブリエーレ・サルチ「果物、クリスタルガラスと楽器」1716年、ウィーン、リヒテンシュタイン公爵家コレクション©LIECHTENSTEIN,The Princely Collections, Vaduz−Vienna/SCALA, Florence=提供写真

 二つは対照的だ。まず目を引くのは背の高いゴブレットだ。青と白のツートンカラーで花の装飾をあしらい、器全体は「レティチェッロ」と呼ばれる精緻な格子模様のレースグラスで作られている。当時のベネチア共和国の元首がデンマーク国王に贈った数百点のグラス・コレクションの作品と類似しており、バロック期ベネチアのガラス技巧の極みを象徴している。

 もう一つは円筒形のタンブラーで、ボヘミア(現・チェコ)に起源を持つ実用的なカリウムガラスで作られている。その後クリスタルガラスの主流となり、ベネチアの産業を脅かす存在に台頭する。このタンブラーに施されている装飾は宗教的意味合いを脱ぎ捨てた「自然主義」を映しており、その意味でも、時代の変革を象徴している。この二つのスタイルが共存した時期は、ごくわずかだったようだ。

 ◇現代の「マエストロ」が再現

 「描かれたベネチアン・グラス」の中には、現存しない作品がある。今回、ベネチア・ムラーノ島在住の現代のマエストロ、ダビデ・フインさんの手によって、五つの作品が再現された。

 フインさんは1962年にムラーノ島に生まれ、90年代に自身の工房を設立した。「過去30年間で最も熟練したマエストロの一人」と称され、著名なガラス工房や国際的な芸術家、デザイナーらとのコラボ活動を展開。世界各国の美術学校や工房などで教壇にも立つ。

 ダビンチの「カーネーションの聖母」に描かれた花器は空想の作品とみられ、現物にすること自体が初の試みだったようだ。五つの再現作品のうち、最も困難な仕事になったのはガブリエーレ・サルチの絵画に描かれた大型の蓋(ふた)付きゴブレットだった。絵画の幾何学的分析だけを頼りに、比率・ボリューム・装飾の細部を可能な限り正確に再現する技術図画を作成した。

ダビデ・フイン「レオナルドの花器」(再現作品)2026年、ベネチア=提供写真

 美的細部を正確に再現するだけでなく、それぞれが制作された時代を想起させる「性格」を作品に与え、当時の雰囲気と語彙(ごい)をよみがえらせることに力を入れたという。「技術的習作としてではなく、何世紀にもわたる伝統の継続性を物語る作品として受け取ってほしい」と強調する。

 箱根ガラスの森美術館は1996年8月8日に開館した。ベネチア市立美術館財団などイタリアとのタイアップで芸術文化を紹介する企画展を重ね、累計入館者は1375万人(6月現在)。

INFORMATION

特別企画展「描かれたヴェネチアン・グラス~箱根ガラスの森美術館コレクション~」

<会 期>7月18日(土)~2027年1月11日(月・祝)。午前10時~午後5時半(入館は同5時まで)。会期中無休
<会 場>箱根ガラスの森美術館(神奈川県箱根町仙石原)
<入館料>一般1800円、高校・大学生1300円、小・中学生600円

主  催 箱根ガラスの森美術館、毎日新聞社
後  援 イタリア大使館、イタリア文化会館、ベネチア市立美術館財団、箱根町
協  力 箱根DMO(一般財団法人・箱根町観光協会)、小田急グループ
特別協力 ダビデ・フイン(D・F・Glassworks)▽監修 由水常雄(美術史家)、キャーラ・スクヮルチーナ(ベネチア市立美術館財団総館長)、ローザ・バロビエール・メンタスティ(ガラス工芸史家)

2026年7月6日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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