舞台美術家として活躍した朝倉摂(1922~2014年)の全貌に迫る展覧会が神奈川県立近代美術館葉山で開かれている。迫力あるリアルなセットで戦後演劇を代表する舞台を彩った功績は有名だが、日本画家として創作活動の出発点に立ったことは知られていない。
彫刻家、朝倉文夫(1883~1964年)の長女として東京・谷中に生まれた。文夫の方針で学校には通わず、独自の家庭教育を受けて育った。17歳で伊東深水に師事し、日本画の道を進む。文夫の子弟らと共に徹底して自然観察する目を養ったからか、何気ない植物や虫、人物をすくい取った素描は見る人を引き付ける。
いわゆる「日本画らしい日本画」は、女性らをみずみずしく描いた「歓び」など展示冒頭の数点にとどまる。20代半ばで家を出て、文夫から自立すると画風をガラリと変えるからだ。キュービズム的な色面構成に挑んだり、ベルナール・ビュッフェをほうふつさせる黒い線で輪郭をぐりぐりと囲ったりする。炭田で働く女性、戦争孤児、サリドマイド薬害など、経済成長を遂げる日本社会の狭間(はざま)に取り残された人々を取材して描いた。日本画の枠に収まらない表現で静かな怒りを記録した。「画風はよく変化したが、一本芯の通った表現をする人だった」と同館の西澤晴美主任学芸員は語る。
作品にサインを残さず、画家としての評価に固執しない人のようだった。「過去を振り返るのは嫌い」と言い、作品はこれまで戸外の倉庫にしまい込まれていた。娘で女優の富沢亜古さんは図録に「もし母が生きていたら怒っているかもしれない」と本展について記していたが、残された日本画に光をあて、画家、朝倉摂と出会う場を作った意義は大きい。舞台美術や挿絵の仕事も併せて紹介している。6月12日まで。
2022年5月18日 毎日新聞・東京夕刊 掲載