彫刻家の福岡道雄さんが87歳で他界し、1年が過ぎた。大阪府の南東端にある河内長野市にアトリエを構え、同時代の美術の潮流とは距離を置いた。「彫刻らしさ」に背を向け、亡くなるまでの約20年は「つくらない彫刻家」として生きた。
代表作の一つに文字のシリーズがある。
「僕達(ぼくたち)は本当に怯(おび)えなくてもいいのでしょうか」「何をしていいのか分からない」「何をしても仕様がない」。弱音にもあきらめにも似たつぶやきを延々と黒い板に刻み始めたのは、1990年代後半のこと。阪神大震災や地下鉄サリン事件が起き、世紀末の不穏な空気が漂う時代だった。
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今年の夏、地元・堺市で開かれた回顧展では、約90㌢四方の作品4点が壁に並んだ。おびただしい数の「何をしていいのか分からない」の文字に交じって、「敦賀の原発は又(また)事故をおこしている」「オーストラリアが原発禁止を憲法で明記した」といった言葉も刻まれていた。
制作年はいずれも99年。2011年に東京電力福島第1原発事故が起こる、そのずっと前だ。「口数の少ない父でしたが、先を見る力があったんだなと感じます」。10年前に母をみとり、福岡さんと2人で暮らしていた長女で陶芸家の彩子さんは振り返る。
福岡さんは、芸術家の役目を<誰よりも先に時を察知すること>と捉え、<只(ただ)、触覚と嗅覚が必要である>と自著『つくらない彫刻家』(12年)につづった。<怯えも悲観も少しも恥ずかしくない>とも書き、時代の流れに敏感であろうとした。
毎朝、時間をかけて新聞の隅々まで目を通し、堺市の自宅から離れたアトリエまで愛車を走らせた。05年の個展を最後に「つくらない」ことを宣言して以降も、毎週のようにアトリエへ通ったという。庭の草むしりと休憩を繰り返し、最後に枯れ草を集めてたき火をするのが日課だった。
コロナ下、車で送迎するようになった彩子さんもそこに加わった。「空や地面ばかり見て、何を考えてはるんやろうと思っていました。でも、変わっていく何かを感じるのに必要な時間だったのかなと今はちょっと理解できます」とほほえむ。
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福岡さんの「つくる」は、自身の意図を作品から遠ざけようとする試みから始まった。砂浜に手を突っ込むことで生まれる穴に石こうを流し込んで作った「SAND」シリーズを58年の初個展で発表。台座の上にそそり立つ彫刻の強さを嫌い、60年代には自立できず中空を漂う風船形の「ピンクバルーン」、70~80年代には草むしりや釣りといった日常の景色を題材にした黒い箱形の「風景彫刻」シリーズを手がけた。
「つくってる時ってのは、ほとんどが作業なんです。逆につくれない時が彫刻家だという気がする。つくれない時をどう過ごすかが一番大事だと思う」。堺の会場で流れていた04年のトーク映像で、福岡さんはそう語っていた。
19歳から彫刻一筋の道を歩んできたが、70歳を前に「つくらない」ことを選んだ。でも、それは引退とは違っていた。自ら「つくらない彫刻家」と表現したように、少なくとも「彫刻家としての自我は捨てなかった」と国立国際美術館(大阪市)の福元崇志・主任研究員は指摘する。
福元さんは17年、福岡さんの大規模個展を企画した。「つくらない彫刻家」という生き方は「つくらなくても彫刻家であり続けられるのか、という一つの実験だったのではないか。『つくれない時が大事』という福岡さんの言葉は、その生き方を考える糸口になる」と思考を巡らせる。
もの派や具体美術協会による前衛芸術運動が注目された60年代以降も集団に属さず、福岡さんは「反」彫刻をひとり模索し続けた。「日本の美術史というマクロな歴史の中ではノイズとなる存在。だけど、摩擦も亀裂もない『正しい歴史』なんて幻想でしかないと教えてくれるのは、福岡さんのような人」と福元さんは語る。
「つくらない」という態度の表明は、作為の否定であり、それは作品を、他者を、意のままにしようとするマッチョな精神の拒否にもつながっていたのだろう。その彫刻は、主張のための手段でもなく、かといって「芸術のための芸術」でもなかった。誰とも違う嗅覚で、時代の「先」を図らずもそこに映し出した。強さや数がものをいい、悪意が渦巻くSNSの夢から覚めない社会で、福岡さんのつぶやきを自問する。私はちゃんと怯えているだろうか。
2024年12月12日 毎日新聞・東京夕刊 掲載