高島野十郎「月」1963年ごろ、個人蔵=提供写真

【美の越境】近代洋画の苦闘の果てに

文:東京大大学院教授・今橋映子(比較文学比較芸術)

日本美術

 無名の画家はどのように再発見されるのか--情報社会の現代においても、再発見の陰には、その画家を認めて支えた人、愛好し、研究する人々、広く公表し展覧して広めようとする人々など、多くの関係者の努力が必須であろう。NHKの番組をきっかけとしてブームとなり、いまや個人美術館まである日本画家・田中一村は、その最たる例だろうか。近年では、東京と奈良を巡回した「不染鉄(ふせんてつ)」展(2017年)が、圧倒的な印象を残した。

 振り返って高島野十郎(やじゅうろう)(1890~1975年)もまた、最初は「無名画家」の一人ではあったが、福岡県立美術館が80年代から研究と周知の努力を続けた結果、いまや人気画家の一人となった。本格的な展覧会が何度も開かれてきたが、没後50年を記念する今回の展覧会は、千葉を皮切りに、福岡、愛知を巡回し、現在は大阪中之島美術館で開催中(21日まで)。今後、東京と栃木を巡回する予定で、過去最大規模となる。

 今回の企画趣旨は、無名だった人に与えられがちな「孤高の画家」像を払拭(ふっしょく)し、日本近代美術史の中に野十郎を位置づけること。確かに岸田劉生、萬鉄五郎、木村荘八、椿貞雄のような、デューラーを思わせる重厚な写実表現の画家たちと隣り合わせて再検討することは、大変に重要だ。野十郎の代表作である「からすうり」(35年)や「さくらんぼ」(56年ごろ)の前に立てば、その写実力に、観(み)る者は言葉を失って圧倒される。

 しかもその写実を突き抜けて、何かその向こうの世界に超越していく独特の感覚が野十郎の世界にはある。

 例えば「菊の花」(56年)や「菜の花」(65年)では、全てが咲き誇って「満開」状態にある花々は、一つも花びらを枯らさず、散らさずにそこにある--その状態自体が幻のようであり、しかもそれらの花々は私たち観る者を向こう側から見返している気配があるのだ。風景画においても、例えば秩父の渓谷を描いたとも言われる「流」(57年)では、巌(いわ)の間を流れる水が一瞬止まって、水が巌となってしまうような幻影が生まれる。

 彼はパリにも学び、ゴッホの「向日葵(ひまわり)」に憧れ、風景、人物、静物のすべてのジャンルを描いたが、展覧会の度にやはり胸打たれるのは、「蝋燭(ろうそく)」の連作だ。自分がお世話になった人、大事な人に、炎を高くゆらす蝋燭を一本だけ描いた小さな絵を贈る--それが野十郎の習わしであり、他とは全く一線を画す独自の「画境」だった。

 その意味では「月」もまた独自の画境だろう。闇の中にぽっかり浮かぶ月を描く--ただそれだけ。最初は少し樹々(きぎ)の陰も下方にあるが、この画のように、ついには月のみが闇に浮かぶ。独自の画境なのだが、私はここに日本近代洋画の一つの到達点を、いつも観る気持ちになる。

 1870年代から欧米に学び、「油画(ゆが)」の技法を学んで帰国した画家たちは、西欧大家の名作を模写して日本に招来し、技法を後輩に伝える重要な役割を果たした一方、「一体自分は何を描くのか」という根源的問いにまともにぶつかった。日本の神話や民俗を描いたり、「ローカルカラー(地方色)」を探したり、もう一度西欧前衛芸術に学んで画法を変えたり、それは壮絶な努力だったに違いない。高島野十郎はそうした近代洋画の苦闘の果てに、「月を描いて闇を観る」という境地に達した。日本画の画材ではなく、堅牢(けんろう)な油画だからこそびしっと構築された闇の深さが月の光明を光らせるのではないか。そこに、仏教者でもあった野十郎の禅の思想を読み解くことは必須であろう(千葉県立美術館長・貝塚健氏のカタログ論文)。ただ、その思考に支えられた高島野十郎が、日本近代洋画家たちの苦悩に一つの答えを提示している事実もまた忘れないでおきたいと思う。

2026年6月11日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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