この春、画期的な展覧会が開かれている。東京・板橋区立美術館の企画「焼絵(やきえ)--茶色の珍事」展である。おそらく本邦初のテーマ展であろう(現在は大阪・中之島香雪美術館に巡回中。31日まで)。
「焼絵(焼画)」とは文字通り、熱した鉄筆や鏝(こて)を紙や絹、また木の板や竹に押し当てて「焦がす」ことによって描いた絵画作品のこと。あたかも筆で描いたかのような表現は、驚かされるばかりである。技法的にはかなり特殊ではあるが、画題は花鳥、人物、山水等(など)さまざまで、特にモチーフの縛りはない。絵柄には基本的に色彩が施されることはなく、作品全体の色目はどれもまさしく「焦げ茶色」である。いわば「焼いた墨絵」のようであり、写真で見る限りではかなり地味な印象だろう。
しかし展覧会場で間近に見てみると、「墨に七色(なないろ)」(黒一色の中にも濃淡七色の表現がある意)の言ではないが、「焦がし」の技術による色目にも、実に豊かな「焼(やき)に七色」があるのだと気づく。その絶妙な色合いの中に、ときに「艶やかさ」までも見出(みいだ)せたことはまことに予想外であった。
さて、現代では一般に馴染(なじ)み薄い焼絵だが、意外にも歴史は古い。「焼絵」という言葉が文献上で確認できるのは、何と平安時代末から鎌倉時代ごろまで遡(さかのぼ)れるといい、当時の芸術としての詳細は明らかではないが、古筆の料紙装飾に用いられた例がわずかに現存している。具体的には、国宝「西本願寺三十六人家集」の内「伊勢集」など、書や和歌文学に関係する作品類であるという。その後、歴史のなかで焼絵は忘却されていた時代があったが、日本では18世紀後半に再び注目されることになる。和歌と結びついていたことがきっかけであったのか、いずれも国学者の村田春海(むらたはるみ)(1746~1811年)や屋代弘賢(やしろひろかた)(1758~1841年)が、「焼画」に関する随筆的な一文を残しており興味深い。およその歴史や制作方法、また当時の江戸の焼絵作家についても記述しているので知ることができ、これらは非常に重要な証言である。
また焼絵は日本だけでなく中国や朝鮮半島などにもあり、「烙画(らくが)」や「火画」、「焦画」といった用語が使われるという。今回の展示では、そうした東アジア地域の(18~20世紀の)作例も多く観(み)ることができ、世界的視野に立って「江戸の焼絵」を再考することができるのも魅力だろう。
なお展覧会カタログに収められた植松有希、片山真理子両氏の論文は、先行研究が少ない「焼絵」分野の、今後の道標となる論考である。抄出ながら「焼絵」に関する重要な古文献も紹介されており、焼絵を愛した古(いにしえ)の人々の感懐が「ことば」として伝わる。焼絵蒐集(しゅうしゅう)家・田部隆幸氏による「特別寄稿」も、焼絵研究の現況がよくわかり、巻末の作品解説と共に、鑑賞の際の良き「導き」として活用したい。
ところで、江戸の焼絵師は何かと不思議である。そのひとり「如蘭」は、実は近江山上(やまかみ)藩の第五代藩主・稲垣定淳(いながきさだあつ)(1762~1832年)である。彼は十一代将軍家斉の頃、公的には大坂定番(京橋口定番)を務めていた大名だった。そんなれっきとした殿様が、ほとんど手引がない中で焼絵の技法を自ら学んで獲得し、多くの弟子を輩出したようなのである。「如仙」「如橋」「如秀」「如翠」等々……、師の画号から「如」の一字を受け継ぎ名乗ったという彼らの人物像は、ほとんど詳(つまび)らかでない。この展覧会が機縁となり、歴史に埋もれた焼絵師たちが、さらに見出されることを愉(たの)しみにしたい。
2026年5月14日 毎日新聞・東京夕刊 掲載