先日ふと1922年生まれの日本の美術家を調べてみたところ、柚木沙弥郎(2024年没)、水木しげる(15年没)、山下清(1971年没)の名前がある。とくに水木と山下は、2日違いの3月生まれ。そうなのか!と奇妙な感動を覚えた直後に、複雑な感情が芽生えてきた。柚木や水木のように長命ではなかった山下清。49歳で急逝した彼の、生誕100年を記念する大回顧展が22年より日本各地を巡回し、間もなくフィナーレを迎える。筆者は山梨県立美術館で見ることができた(長崎県美術館へ巡回中、4月5日まで)。
昭和13(1938)年ごろに「天才特異児童」として世間に紹介されて以来、時代とともに山下には「日本のゴッホ」「裸の大将」「放浪の天才画家」等、繰り返されてきたキャッチフレーズがある。山下の人生と貼絵作品は、そうした決まり文句とともに、戦後のマスメディアで大きく取り上げられてきた。
生前から各地で個展も開催され、多くの観客を動員するなど、山下の絵画は高い評価を受けてきたようにみえる。しかし実際には、それは彼が吃音(きつおん)や軽度の知的障害をもっていたゆえであり、いわば「異端」であることが、作品評価の尺度にもなりがちだった。
また彼の人柄や行動(長期の放浪生活)は映画やドラマの題材にもされ、ゆえに昭和の大衆に周知されたことは疑いない。だがこうした事柄がバイアスとなり、山下清というひとりの画家を、正当に評価することを等閑(なおざり)にしてきたことも否めないのである(服部正・藤原貞朗『山下清と昭和の美術』)。
今回の回顧展はそうした問題意識のもとに企画・構成され、おもに2000年以降に進められた学術研究を踏まえているだけに、非常に見応えがあった。
江戸絵画史研究の筆者には、伊藤若冲「群鶏図」(『動植綵絵』)にならった山下の数少ない油彩画が、改めて興味深い。彼は昭和15(1940)年に貼絵で「群鶏図」を初制作して以来、陶磁器の絵付けでも模作を試みたというが、若冲に学んだのは単なる絵柄だけではなく、画面全体を作り込むその「精確さ」ではなかったかと、はっとさせられたのである。
例えば貼絵「自分の顔」(50年)の背景には、いずれも丹念に指先だけで切り出された正方形(1辺5㍉程度)の複数種の白紙が、ある規則性(方眼)をもって配列されている。しかも一つ置きの升目のなかに、さらに薄褐色の丸(これも紙片か)が点じられている。このミクロ表現は、偶然にも若冲の升目描き「樹花鳥獣図屛風(びょうぶ)」(静岡県立美術館蔵)をも彷彿(ほうふつ)とさせるものがある。山下があの若冲画を、実際に見たかどうかは不明である。が、彼は一度見たものは記録のスケッチ画をなくしても、後から正確に再現し描くことができたという。その圧倒的な「眼(め)の記憶力」によって、若冲の超絶技巧を自家薬籠(やくろう)中のものとした可能性は大きい。
さて、会場出口近くに置かれたテレビモニターでは、記録映画「はだかの天才画家・山下清」(監督・西沢豪、57年公開)が流れていた。すでに30代半ばの山下を、「清くん」呼びするナレーションにはいささか違和感を覚えたが、それもまた「時代の証言」だろう。山下の貼絵制作の過程を、アグファカラーで捉えた映像は立体的で説得力があり、思わず見入ったが、何よりも「色」と「形」を繊細に切り出す山下の指先が、何としなやかで素早く、美しいことだろう。むしろ「裸の大将」に付きまとう愚鈍さは、全くの虚構だと感じさせる証言映像であった。
2026年3月12日 毎日新聞・東京夕刊 掲載