
--ってやんでぇ、べらぼうめ! この春らぁ東京中が蔦重だらけじゃねえかっ!
というわけで、①東京国立博物館(東博)「蔦屋重三郎」展(6月15日まで)と、これに先駆けて開催されている「蔦重」関連展のうち、東京開催の三つの展覧会(②すみだ北斎美術館、③東京都立中央図書館、④国学院大学博物館)を観た。どれも実に面白い。NHK大河ドラマに描かれる江戸の出版界をめぐる様相は、かなり実像に近く描き出されているとわかる。時間があれば②③(④は終了)の展示を先に観てから①東博展に赴けば、現代人にとってはいささか難解な江戸の「通」の美意識というものを簡潔に理解し、一種の異文化体験としても愉しめることだろう。
蔦屋重三郎(1750~97年)は、18世紀末の新吉原で地本問屋(絵草紙屋)「耕書堂」を開業し、のち江戸の中心である日本橋に新出した板元。世上の流れを読み、客が求める商品をいかに巷に流通させるかは、いつの世も商人たちが策を練るところだが、初代蔦重は「その先」までも読み切ることに長けたプロデューサーだった。持ち前の才覚で多くの文筆家や画家の才能を見いだし、書籍や浮世絵の企画・出版だけでなく、吉原に立脚した「大人イメージのお洒落」の文化を創造した。
念のためだが、これは現代に言う所謂「風俗」文化とは異なる。蔦重ブランドの作品には古典世界を透き写した「見立て」や「うがち」の知的遊戯が随所に表れ、またある時は鋭く同時代社会への批評的精神も織り込まれる。その巧みさには唸る。しかし松平定信による寛政の改革(87~93年)により、蔦重もまた咎めを受けることになり、それまでの出版コンセプトの変更を余儀なくされる。だが、一方で寛政の改革は広域的な「学問ブーム」を巻き起こし、書物の需要・流通は増大。書物業界の活況へと直接繫がり、当然ながら蔦重はそれを見逃さなかった。蔦重は名古屋や伊勢の書肆とも連携し、漢籍や和学(国学)書の刊行にも乗り出す。意外だが、あの本居宣長の名著『玉勝間』の江戸での流通は、実は蔦重が仕掛けたものだった。数え48歳で病没する蔦重の活動は、最晩年まで精力的だったのである。
さて蔦重の功績で美術史的に重要なのは、歌麿や写楽、北斎など浮世絵師たちの発掘と起用である。91年ごろから発表し始めた歌麿の「美人大首絵」の様式は、94年に写楽による役者絵にも使用され大評判となる。今日人気の高い写楽の浮世絵(140点超)は全て蔦重プロデュースで、わずか10カ月間に発表された。また往時の耕書堂の姿を伝える有名な一図(『画本東都遊』、1802年)は北斎が描いたものである。実は蔦重は写楽を売り出す以前から有望な役者絵の描き手を探し、勝川春章のもとで「春朗」と名乗り描いていた北斎に白羽の矢を立てた。②展では蔦重ブランドで発表した北斎初期の役者絵が初公開されている。
思えば初代蔦重亡きあと、北斎は膨大な傑作群を描き遺した。その天才性を世に送り出した功績の一端は、間違いなく蔦重にあったと言えるだろう。①展ではそれを強く感じさせる浮世絵作品がずらりと並んでいる。文化創出のエネルギーはいつの世も驚きをもたらす。時代の「革新性」の証言として観る浮世絵。その魅力を存分に体感したい。=隔月で執筆。次回6月12日は、東京大大学院の今橋映子教授(比較文学比較芸術)です
2025年5月8日 毎日新聞・東京夕刊 掲載