
台湾中部・嘉義県にある国立故宮博物院南院では、「江戸浮世之美」と題された展覧会が開催されている(8月31日まで)。開催館をはじめとする台湾にあるコレクションに加え、日本の七つの機関からも数多くの作品が貸し出され、版画・版本を中心に17世紀から19世紀までの浮世絵の歴史が広く見とおされるような展示内容である。
出光美術館からは「江戸名所図屛風(びょうぶ)」が出品されている(展示は15日まで)。この作品は、国から重要文化財の指定を受けているから、原則として海外に持ち出すことができない。ただし、国際的な文化交流に役立つなどの理由があれば、例外的に輸出が許される場合がある。この数カ月間は、まさにその許可を得るために費やされた。
企画の趣旨や意義、輸出の期間や輸送の方法、施設の環境や設備の安全性などをめぐって、先方へ粘り強く問いかけたのは、出光美術館で貸し出し業務を担う田中優羽さん。展示を担当する国立故宮博物院南院の朱龍興さんは、矢継ぎ早に寄せられるさまざまな質問に対して、不慣れな異国の言語を丁寧に操りながら誠実に答えつづけた。そして、文化庁の文化財第1課の皆さんは、この展示企画への理解を示し、懸念事項をひとつひとつ的確に指摘しながら輸出にともなうリスクの解消へと導いた。そのほかにも、この案件に関わるすべての人々の真摯(しんし)な仕事の積み重ねによって、今回の出品は実現している。
借用の依頼を受けたときに「ノー」と返事をするのは、とてもたやすい。何かしらの理由をつけて断ってしまえば、輸送や展示の危険を作品に負わせなくて済む。また、どれだけ煩わしい手続きを重ねたとしても、作品を貸し出す側にとってはその労力に見合うだけのメリットがほとんどない。それでも、出品の相談があればできる限り前向きに対応しようとするのは、独創的で丹念な展示企画のなかで、日ごろ身近に接している作品がどのような新しい顔を見せるかを所蔵館として知りたいからである。
今回の展覧会は、故宮博物院の創立100年と南院の開館10周年を記念する事業の一環として企画された。展示会場には「神奈川沖浪裏」に代表される葛飾北斎の揃物(そろいもの)「冨嶽三十六景」や歌川広重の「東海道五十三次」シリーズといった傑作がならび、浮世絵版画の粋に触れたいと望む一般の声に応えようとする構成がたしかに意識されている。だが、この展覧会が一過性の興行で終わらないことは、「跨界交流」のタイトルを掲げた最後の章をみればわかる。ここでは、小林清親、高橋月海、吉田初三郎など、台湾の風景を描いた作家たちの仕事を扱うことによって現地の関心を引き寄せながら、浮世絵を東アジアの近代美術史の関心事としてとらえる。このような大きな視点を持った展示の脈絡のなかで、17世紀の江戸の活況を描いて〝浮世〟の幕開けを告げる「江戸名所図屛風」は、「江戸浮世の美」を説き起こすためにやはり不可欠な一点だったと思う。
文字どおり万難を排し、ときにはるばる異国にまで運ばれる作品たちは、豊かな文化のありようを語るための生きた証人であるべきだ。その声が発せられるように手助けをすることが、美術館学芸員の大切な役割であるとあらためて強く感じた。
2025年6月10日 毎日新聞・東京朝刊 掲載